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戴震は清代考証学を大成させたといわれる。そのためには「他人の見解」と「自分の見解」にとらわれないという態度と、最後まで信じられる根拠がなければ聖人君父の言葉であろうと信じないという決断を必要とした。「十分の見」と「不十分の見」、つまり論理一貫し疑問の余地を残さない定理と、伝聞や推論にのみ基づく仮説を区別するという方法は近代実証学の始まりといえる。戴震がもっとも集中して研究したのは小学・暦算・水地(地理)であった。『[[四庫全書]]』における天算(暦)に関わる提要はすべて戴震の手になるものである。
 
戴震の方法をもっともよく伝えたのは、[[段玉裁]]・[[王念孫]]・[[王引之]](念孫の子)であり、世に戴・段・二王と称された。これらの人々は宋学に関しては議論せず、政治をあつかわず、考証のための考証を行ったとみなされている。当時の学者で高官となったものでは紀昀・[[王昶 (述庵清朝)|王昶]]・[[畢沅]]・[[阮元]]らが、戴震の影響を受けた。
 
戴震がその精髄は『孟子字義疏証』にある。その中の「聖人の道は、天下の情のすべてを実現させ、その欲を遂げさせようとするものであって、このようにして天下ははじめて治まる」という言葉は、戴震の哲学を端的に表す。理というのは情から生まれるものなので、それを役人の法のようなもの、抑圧の道具として理解したのは後世の儒学者たちの誤解である。程朱の哲学が「理」を物体のように存在し天から受けて心に具わるものとしたことは、人々が自分の臆断を「理」として固執するという禍を引き起こした。戴震は無欲を至上とする仏教の倫理を儒学に持ちこむことや、普通の人間の「欲」を否定して聖人のみが達することができる「理」を押しつけることによる弊害を除こうとした。[[梁啓超]]はこのような戴震の立脚点を、ヨーロッパの[[ルネサンス]]に比較できる倫理上の一大革命と評価している。『孟子字義疏証』は宋儒が儒学と仏教を混合させたことを厳密に論証し、戴震自身が自分の主著と認めたにもかかわらず、当時好んで読んだのは弟子の[[洪榜]]のみで、『疏証』に反論したのは[[方東樹]]だけであったという。彼の著作『戴震遺書』に収められている。