「トレチェント音楽」の版間の差分

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トレチェント音楽の詩の内容はこれらの伝統を受け継ぎ、狩り、田園、恋愛が多くを占め、またこの辺りを遍歴していた[[ペトラルカ]]の影響も大きかったようだ。
多声化への影響としては、確たる証拠は見つかっていないが、フランス王の使者として[[アヴィニョン]]の教皇庁に出入りしていたとされる[[アルス・ノーヴァ]]の創始者[[フィリップ・ド・ヴィトリ]]の音楽が、この教皇庁を支持していたミラノの宮廷に紹介されていた可能性は否定できない。(イソリズムこそ用いていないが、初期の作曲家の作品には既に幾つかの[[モテット]]が存在する。)
 
トレチェント音楽は、[[ミラノ]]の[[ヴィスコンティ]]家などの特定の宮廷文化として花開いた初期、[[フィレンツェ]]を中心として裕福な市民階級に広がりを見せた盛期、[[ローマ]]とアヴィニョンの教皇庁同士の音楽趣味の競い合いから[[アルス・スブティリオル]]を採り込んで技巧に走り、特定のパトロン達に依存するようになって結局は15世紀の初頭に[[フランドル楽派]]に道を譲った末期に分ける事が出来る。その後16世紀半ばまでイタリア人音楽家は流行歌の[[フロットラ]]や[[ラウダ]]を作る事に埋没し、その間著名な作品も作曲家も現れる事はなかった。