「ジャン・ピエール・ボワイエ」の版間の差分

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ハイチは[[1804年]]に独立し[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]が皇帝となるが[[1806年]]に倒され、[[アンリ・クリストフ]]の支配する北部の[[ハイチ王国]]とペションの支配する南部のハイチ共和国とに分かれた。クリストフが自殺するとペションの後継者となっていたボワイエはハイチ王国を併合した。[[1821年]]に[[スペイン領サントドミンゴ|サントドミンゴ]]が[[スペイン]]から独立すると侵攻して[[1822年]]2月にこれも併合した。ボワイエは[[1843年]]にエリート支配層の支持を失って追放されるまで[[イスパニョーラ島]]全島を支配した<ref>{{cite book| first=Jan| last=Rogozinski | year= 1999| title= A Brief History of the Caribbean| edition= Revised| publisher=Facts on File Inc.| location=New York| pages= pp 218-220| id= ISBN 0-8160-3811-2 }}</ref>。
 
ボワイエはフランスの脅威を国際的に取り除くことを願って交渉を始めた。14隻のフランスの軍艦がポルトープランス沖に停泊する中で、[[1825年]][[7月11日]]に合意が結ばれ、ボワイエは賠償に署名した。そこで5年以内に1億5000万[[フランス・フラン|フラン]]を支払う見返りとして、フランスがハイチを独立国と認めると宣言した。この金額はボワイエの交渉の末[[1838年]]に60009000万フランに減額されたものの、ハイチ経済に壊滅的な打撃となり、残酷にもボワイエは賠償の最初の分を支払うためのフランスからの3000万フランの借入の交渉を強いられた。
 
ハイチの人々は自給的農業に移行していたが、このためにボワイエは半封建的[[寄生地主制|小作]]農業を強制することになった。ハイチの人々はこの状況に気分を損ね、彼らをなだめるために、ボワイエは最初の革命時に試みられて放棄された土地分配計画を復活させた。大きな[[プランテーション]]は細分され、土地が分配されて、地方の住民には彼らの小自作農地に応じた生産割当てが与えらた。ボワイエ政権は1843年まで持ち堪えたが、ひどい経済状況が地震によってさらに悪化し、恵まれない地方の住民が1月末に[[シャルル・リヴィエル=エラール]]の下に蜂起した。[[2月13日]]ボワイエはハイチから[[ジャマイカ]]に逃れ、フランスに亡命しパリで亡くなった。ボワイエの子孫は今日も困窮したハイチで生活している。
 
 
== 脚註 ==
18,971

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