「マーケット・ガーデン作戦」の版間の差分

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1944年8月、[[ノルマンディー]]・ファレーズにおいて[[ドイツ軍]]に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日には[[パリ]]を奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍が[[ベルギー]]・[[アントウェルペン|アントワープ]]を奪還していた。
 
<!--しかし-->この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資は全て[[コタンタン半島]]の先端の港湾[[シェルブール]]かノルマンディーの上陸地点を経由しており、[[イギリス海峡]]に面した他の重要な港湾は、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか([[ダンケルク]]など。ダンケルクは1945年5月のベルリン陥落までドイツ軍が残存した)、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には連合軍の進撃が停止する。このため[[イギリス海峡]]に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。[[アントウェルペン|アントワープ]]は世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備残存していたため連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はシェルト川を遡上した内陸にあり、内水への航路上には水上機雷が敷設されており掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)とりわけ北岸港湾施設はドイツ軍が排除されていないためおらず、港湾としての機能が果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊にはカナダ第一軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントワープ港の完全開放にとってはやっかいな問題であった。
 
連合軍、特にイギリス第21軍集団司令官[[バーナード・モントゴメリー]]元帥は、ベルギー・オランダ方面に戦力を集中し迅速なドイツ国内への進撃を行うことが、ドイツを打倒するために最適であると考えていた。ラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯を打通することでドイツの継戦能力を破壊すること、これがモントゴメリーの主張であった。これにはモントゴメリーと連合国部隊内における一番乗り競争に絡む名誉の問題、あるいは[[イギリス]]は戦争における人的資源の消耗が激しく、早期の戦争終結を求めていたことがこの判断の根底にある。この作戦が成功すればクリスマスまでに戦争は終結する。ただし、モントゴメリーに迅速な作戦遂行の経験が少ないこと、攻撃正面が狭く進撃部隊が比較的小規模になりドイツ軍からの反撃が予想されることから、連合軍内部で反対にあっていた。特に連合軍総司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]将軍は、ベルギー・オランダ方面だけではなく全戦線で攻撃をかけることにより、ドイツ軍からの反撃をおさえる方法を主張していた。そこで総司令部はモントゴメリーに対して、当初シェルト川河口域北岸のドイツ軍駐留部隊の排除のみを要求していた。
 
折りしも、9月8日に[[V2ロケット]]による初の[[ロンドン]]攻撃が開始され、事態は大きく変化する。このV2ロケットは当時の技術では迎撃不可能であった。そのため、この発射を阻止するためには発射基地を破壊する必要があり、確実な発射阻止・ロンドンへの着弾阻止のために発射拠点と見られるオランダ地区を奪還する必要が生じた(なおV2に関する技術情報は事前に入手されていたことから、この推測には相応の妥当性があり、また確かに結果としてV2は[[ハーグ]]を中心としたオランダ地区から発射されていた)。