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'''田北鑑生'''(たきたあきなり、生年不詳 – [[永禄]]4年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]([[1561年]][[12月15日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[大友氏]]庶流[[田北氏]]当主。父は[[田北親員]]で、[[田北鑑重]](紹鉄)・[[田北鑑益]]、[[田北鎮周]]の兄。また[[田原親賢]]と[[大友義鎮|宗麟]]正妻(奈多婦人)の伯父。大和守。
 
父の親員は大友氏の重臣であり、鑑生は初め[[大友義鑑]]の側近として仕える。[[大永]]6年([[1526年]])、謀反の疑いありとして[[佐伯氏]]の[[佐伯惟治]]討伐に父に従って[[栂牟礼城]]攻撃に参加。1534年([[天文 (元号)|天文]]3年)大内軍が[[豊後国|豊後]]に進行。大将は[[陶興房]]と[[杉重信]]率いる三千騎あまり。これに対し大友軍は本隊として[[吉弘氏直]]と[[寒田親政]]を大将として2800騎を送った。陶興房は休まず進軍し、奇襲をかけて大友の大将2人を討ち取ってしまう。これに別働隊として千人あまりを率いていた田北鑑生は敗れた本体を収容し、疲れていた大内軍に突撃した。激戦により杉重信を討ち取り、陶興房に傷を負わせて勝利した([[勢場ヶ原の戦い]])。この戦いの後、大内氏との和睦を願って神社を建設する。そのほかは大友館の修理も行なった事もある。