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'''イゴール・アンドレエフ'''('''Igor Andreev''', {{lang|ru|''Игорь Валерьевич Андреев''}}, [[1983年]][[7月14日]] - )は、[[ロシア]]・[[モスクワ]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。フルネームは ''Igor Valerievich Andreev'' (イーゴリ・ヴァレリエヴィッチ・アンドレエフ)という。これまでに[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス24位、ダブルス59位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。赤土のクレーコートを得意にするベースライン・プレーヤーである。ロシア語の読み方により近い「イーゴリ・アンドレエフ」の表記も多く見られる。
 
アンドレエフは7歳の時から、[[モスクワ]]市内にある「スパルタクラブ」で[[テニス]]を始めた。この名門クラブは、かつての女子の名選手だった[[オルガ・モロゾワ]]がテニス・コーチの夫とともに設立したものである。15歳の時、練習拠点を[[スペイン]]の[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]に移した。[[2002年]]にプロ入り。[[2004年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[ロシア]]代表選手に選ばれ、同年の[[アテネオリンピック (2004年) におけるテニス競技|アテネ五輪]]にも出場した。オリンピックでは、シングルスは[[チリ]]代表の[[ニコラス・マスー]]との3回戦まで勝ち進んだが、[[ニコライ・ダビデンコ]]と組んだダブルスは2回戦で[[イスラエル]]代表の[[ヨナタン・エルリッヒ]]&[[アンディ・ラム]]組に敗れた。オリンピックの後、アンドレエフとダビデンコは[[モスクワ]]の「[[クレムリン・カップ]]」ダブルスで、[[マヘシュ・ブパシ]]&[[ヨナス・ビョークマン]]組を 3-6, 6-3, 6-4 で破って優勝した。
 
イゴール・アンドレエフは[[2005年]]4月、[[スペイン]]・[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]大会の決勝で[[デビッド・フェラー]]を破り、男子ツアーのシングルスで初優勝を飾った。この年は男子ツアーでシングルス年間3勝を挙げ、[[2006年]]4月3日付で世界ランキングの自己最高位「24位」をマークした。しかし、[[2006年]]4月28日にアンドレエフは左膝軟骨損傷修復のための手術を受け、半年間の戦線離脱を余儀なくされた。その間に世界ランキングも降下し、[[2007年全仏オープンテニス|2007年全仏オープン]]を迎えた時は「125位」まで落ちていた。この大会で、アンドレエフは[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子シングルスで初めての好成績を出した。
 
アンドレエフは1回戦で第3シードの[[アンディ・ロディック]]を 3-6, 6-4, 6-3, 6-4 で破って波に乗り、4回戦で[[キプロス]]の[[マルコス・バグダティス]]を破った。初めての準々決勝では、第6シードの[[ノバク・ジョコビッチ]]([[セルビア]])に 3-6, 3-6, 3-6 のストレートで敗れた。(この大会では、アメリカの男子選手9名がすべて1回戦敗退に終わったが、これはテニス4大大会史上40年ぶりの珍事と言われた。)