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戦国時代には[[筒井順昭]]が一時国内の大半を平定して[[戦国大名]]化を進めるが、順昭が急死して幼少の[[筒井順慶|順慶]]が後を継ぐと、越智氏らが反撃して筒井氏の支配は解体、更にその間隙を縫って[[三好長慶]]配下の[[松永久秀]]が大和に攻め込んで順慶を追放、越智氏らを屈服させて[[永禄]]2年([[1559年]])興福寺から大和国守護職の地位を奪った。その後、[[織豊政権]]政権のもとで大和一国の大名として復活した筒井順慶は、対外的には大和国主として国内的には父祖代々継承してきた官符衆徒の代表として[[法印]][[僧都]]の地位に就くという二面性を持った支配体制を確立する。だが、順慶の死後には[[豊臣秀吉]]が弟の[[豊臣秀長|秀長]]に大和一国を与えて、既存の支配体制を否定、衆徒・国民を強制的に解散させ、興福寺に対しては官符衆徒本来の20氏(名)のみを寺内の事務・警備要員として採用して総計380石を与えることを認めたのである。
 
== 関連項目 ==
*[[大和永享の乱]]
[[category:僧|しゆと]]