「アドルフ・サックス」の版間の差分

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[[ブリュッセル]]で楽器製作を学んだ後、本格的に楽器の製作に取り組み始めた。20歳の時には、[[バスクラリネット]]の設計で特許を取得した。
 
[[1841年]]には永住の地となるパリに移住し、バルブ機構付きの[[金管楽器]]の開発で名を知られるようになった。[[1844年]]には、後に[[サクソルン]]([[:en:saxhorns]])として知られるようになる、キー付きのビューグル([[:en:Bugle (instrument)|Bugle]])を展覧会に出展した。この楽器それ自体は彼の発明によるものではなかったが、彼のライヴァルたちによるものよりも優れたものだった。このサクソルンには7種類の管があり、[[ユーフォニアム]]とよく似た外見を持っており、後には[[フリューゲルホルン]]の発明に道を開くものだった。彼はまた、[[1845年]]にサクソトロンバ(saxotromba)という楽器も発明したが、こちらはごく短命に終わった。
 
この[[1840年代]]には、彼の名を最もよく知らしめているサクソフォーンの発明も行なわれている。サクソフォーンのもととなる発明の特許は[[1838年]]に取得されていたが、楽器についての特許が取得されたのは[[1846年]]のことであり、その頃にはソプラノ・サクソフォーンからバス・サクソフォーンまでの、今日に連なるサクソフォーン一族が開発されていた。
 
サックスは、生涯を通じて楽器製作とパリ音楽院でのサクソフォーン教育に携わった。しかし、彼のライヴァルの楽器製作業者たちは、サックスのもつ特許の正統性に繰り返し攻撃を加え、サックスと彼の会社に対する長期にわたる訴訟を仕掛けてきたために、2度([[1856年]]および[[1873年]])にわたって破産の憂き目に会うことになった。長きにわたる法廷闘争はサックスの健康を損ね、[[1853年]]と[[1858年]]の2度にわたって癌のために入院を余儀なくされた。
 
[[1894年]]、パリにて死去。[[モンマルトル墓地]]に埋葬された。