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'''秋田城介(あきたじょうのすけ)'''とは[[律令制]]において[[出羽国]]の[[秋田城]]を専管した[[国司]]である。秋田城に置かれた出羽介であることから秋田城介といわれるようになった。
 
780年に秋田城強化の方針が打ち出され、国司が秋田城に常在し統治に当たることとなった。10世紀後半には[[平繁盛]]が秋田城介に任官して以降、繁盛の子孫(繁盛流)、特に繁盛の孫である繁茂の一流が秋田城介を世襲し、繁茂の子、[[平貞成|平貞成]]からは秋田城介にちなんで城(じょう)の名字を名乗り始めた。この頃には、秋田城介の官職は名目だけのものとなっていた。しかし、秋田城介になることは武門の誉れとされるようになった。
『[[陸奥話記]]』には、前九年の役の前哨戦として[[陸奥|陸奥守]][[藤原登任]]は秋田城介平重成と[[安倍頼良]]を攻め、1051年(永承6年)11月の「鬼切部の戦」で敗北したとあるが、この秋田城介平重成は余五将軍[[平維茂]]の子の[[平繁成]]でありその子孫は城氏を名乗る。
 
ちなみに、城氏は越後に土着した(越後城氏)が、[[治承・寿永の乱]]の際に[[平氏]]側へついたため、不遇をかこつこととなり、1201年([[建仁]]1)、[[城資盛]]が起死回生を図って[[鳥坂城]]で挙兵したがほどなく[[鎌倉幕府]]に滅ぼ鎮圧され以降[[城氏]]は途絶えた歴史上には姿を現さない
 
[[吾妻鏡]]によると[[平繁成]]以降秋田城介に任命されたものは無く、
1218年([[建保]]6)、幕府の有力御家人である[[安達景盛]]が出羽介に任ぜられ、秋田城介を称した。これは、秋田城介が武家にとって栄誉ある名跡となっていたためである。これ以後、鎌倉期を通じて[[安達氏]]が秋田城介を世襲した([[安達泰盛]]が滅ぼされた[[霜月騒動]]は「秋田城介の乱」とも呼ばれる)。室町期には秋田周辺に勢力をはった[[安東氏]]が秋田城介を名乗った。
 
1575年([[天正]]3)、[[織田信長]]の嫡男、[[織田信忠]]が秋田城介に補任された。信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17)、安東氏の後裔、[[秋田実季|安東実季]]は秋田城介を称するとともに[[秋田氏]]を名乗った(秋田の氏は秋田城介に由来する)。秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて[[明治維新]]に至った。
 
[[Category:令外官|あきたしようのすけ]]