「キリスト教」の版間の差分

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→‎日本とキリスト教: 推敲。どの段階から教派別記述にするかが不統一。また、戦後ブームが来て去ったことを記す必要あり。
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日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、[[中国]]で[[景教]]と呼ばれた[[ネストリウス派]]キリスト教が[[5世紀]]頃[[秦河勝]]等によって[[日本]]に伝えられたとする説がある<ref>『日本キリスト教歴史大事典』の「景教」の項。複数の文献が掲載されている。広隆寺が拠点になっていた、との記述もあり。</ref><ref>『世界大百科事典』平凡社、第7巻 p.502</ref><ref>景教の日本への伝播によってイエス・キリストの誕生時の物語も日本にも伝わり、そのイメージを重ねる形で聖徳太子が馬小屋の前で生まれたとされ、その幼名が厩戸皇子となったとする説もあるが、これに関しては想像の域を出ない。</ref>。
 
史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、[[16世紀]]の[[カトリック教会|カトリック]]教会の司祭、[[イエズス会]]の[[フランシスコ・ザビエル]]らによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、[[キリスト教徒]]は「キリシタン」、キリスト教[[宣教師]]は「バテレン」と呼ばれた。宣教師に対して好意的だった[[織田信長]]の政策を踏襲した[[豊臣秀吉]]もキリスト教を保護した。[[1587年]]に[[バテレン追放令]]を発布した後も、キリスト教は事実上黙認されていた。(秀吉の命令で行われた唯一の迫害行為は[[1597年]]に長崎で行われたキリスト教徒[[日本二十六聖人|二十六人の処刑]]のみであった。)[[徳川家康]]が権力の座についた当初もキリスト教に対しては寛容な態度がとられていたが、[[1614年]]に禁教令が出され、以後キリスト教徒の探索と迫害が行われた。激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、[[隠れキリシタン|潜伏キリシタン]]として信仰を守り続けた。
 
禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人[[ベルナール・プティジャン]]神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い([[大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂]])、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼歴を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。
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カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校([[ミッションスクール]])や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現在のコープこうべの前身)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。
 
戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも難しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の導下に合同教会「[[日本基督教団]]」を設立した。聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、取調べによる死者も出ている。
 
=== 現代日本のキリスト教 ===
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==== プロテスタント ====
[[プロテスタント]](はその殆どが[[日本基督教団]]に合同)もカトリックと同様の立場を取っていたが、殆ど全ての教会に求道者を装った[[特別高等警察|特高]]の密偵が入り厳しい監視下に置かれ、時として牧師連行などの弾圧を受けた。
 
殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、[[再臨]])という信仰のスローガンで知られる[[ホーリネス教会|ホーリネス]]の日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の三派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、七名の牧師が殉教した。
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元々、戦時中の政府の政策で一本化された[[日本基督教団]]であるが、現在は超教派の教団として現在でも残っている。
 
1960年代の学生運動のときには、[[靖国神社]]参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの[[大学生]]を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては共同訳による[[新共同訳聖書]]の共同翻訳事業が特筆される。この新共同聖書においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として聖書から除外したもの(集会の書、マナセの祈り等)を「[[旧約聖書続編]]」としてまとめている。このことは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。
 
また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。