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'''小平 浪平'''('''おだいら なみへい'''、[[1874年]][[1月15日]] - [[1951年]][[10月5日]])は、[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]期([[1900年代]]-[[1940年代]])の[[実業家]]。株式会社[[日立製作所]]の創業者。日立製作所取締役社長、専務取締役などを歴任
 
[[栃木県]][[下都賀郡]]家中村(現・[[都賀町]])出身。[[久原鉱業所]]から[[日立製作所]]を独立させた。[[東京帝国大学]]工科大学電気工学科(現[[東京大学]][[工学部]])卒業。
 
==来歴・人物==
小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として[[栃木県]][[下都賀郡]]家中村大字合戦場に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、[[日本学園中学校・高等学校|東京英語学校]]、第一高等中学校(在学中に[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に改組)を経て東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。
 
卒業後、藤田組小坂鉱山に電気主任技術者として入社、山止滝発電所を建設する。31歳の時、也笑と結婚。その後、広島水力電気株式会社、東京電燈株式会社(現[[東京電力]])を経て、1906年、久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社する。
また、小平は高尾直三郎、馬場粂夫など東京帝大電気工学科卒の優秀なエンジニアを入社させたが、彼らが工場の豊富な電力を利用して設備を内製したことが、後の[[日立製作所]]の製品群の基礎となった。1951年10月5日、死去。[[享年]]77
 
工作課長時代の小平は、鉱山における土木建築工事、機械・電気設備の設計・設置の指揮を行うとともに、鉱山で使用する電力を確保するために、中里発電所、石岡発電所の水力発電所を設置した。そのため、[[蒸気機関]]が主な動力であった当時の日本にあって、日立鉱山は送風、用水、輸送から電灯、[[精錬]]に至るまで電化が進んでいた。
 
1911年、久原鉱業の機械工場として日立製作所を設立、小平は専務取締役に就任。1920年、株式会社日立製作所として久原鉱業から独立し、社長空席のまま専務取締役に就任。1928年、同社の初代取締役社長に就任した。
また、小平は高尾直三郎、馬場粂夫など東京帝大電気工学科卒の優秀なエンジニアを入社させたが、彼らが工場の豊富な電力を利用して設備を内製したことが、後の[[日立製作所]]の製品群の基礎となった。1951年10月5日、死去。[[享年]]77。
 
1947年、軍需工場の役割も果たしていた日立製作所の役員がパージ([[追放令]])で総退陣。小平も社長を退任する。後任社長には常務取締役の倉田主税が就任した。
 
1951年10月5日、死去。[[享年]]77。
 
小平の経歴などについては、[[テレビ東京]]『[[オンリーワンの原点]]』で紹介されている。