「市川左團次 (3代目)」の版間の差分

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「め組の喧嘩」wo神明恵和合取組
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[[1954年|1954(昭和29)年]]、[[市川左團次 (2代目)|二代目左團次]]未亡人の希望もあって、名跡を受け継ぎ三代目[[市川左團次]]を襲名。5月[[歌舞伎座]]の『[[女鳴神]]』の鳴神尼がその披露狂言であった。その後、歌舞伎会の重鎮として舞台に活躍、[[1962年|1962(昭和37)年]]日本芸術会員に選出、翌[[1963年|1963(昭和38)年]]には[[日本俳優協会]]会長に就任、さらに翌[[1964年|1964(昭和39)年]]に[[重要無形文化財]]([[人間国宝]])に選定された。[[1969年|1969(昭和44)年]]6月[[国立劇場]]『[[妹背山婦女庭訓・道行]]』の烏帽子折求女が最後の舞台となった。
 
役柄は大変広く『[[髪結新三]]』の手代忠七、『[[籠釣瓶]]』の栄之丞、『[[本朝廿四孝・十種香]]』の勝頼などの二枚目役や『[[加賀鳶]]』の松蔵、『[[神明恵和合取組|め組の喧嘩]]』の喜三郎などの立役、『[[夏祭浪花鑑]]』の三婦、『[[野崎村]]』の久作、『髪結新三』の家主長兵衛などの老役、『[[先代萩]]』の栄御前、『[[暗闇の丑松]]』のお米、『[[桐一葉]]』の[[淀殿|淀君]]などの女形が挙げられる。
 
[[市川左團次 (初代)|初代]]・二代と続いてきた左團次の芸風とは異るが、長いキャリアと教養に培われてきた技術で、戦後歌舞伎を盛りたてた名優であった。