「コントラ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Category
編集の要約なし
4行目:
 
== 概要 ==
この言葉が有名になったのは、[[1979年]]の[[サンディニスタ]][[革命]]政権の成立を危惧し、当時の[[アメリカ合衆国]]の[[ロナルド・レーガン|レーガン]][[共和党_(アメリカ)|共和党]]政権の資金提供によって活動した反政府民兵(事実上の[[傭兵]])による。
 
革命によって成立した[[サンディニスタ民族解放戦線]](FSLN)政権に対し、反対の側に立ったため、彼らは「コントラ」と呼ばれるようになった(スペイン語で[[反革命]]は"contra-revolucion")。
 
コントラとは三派に分かれて活動した反ニカラグア民兵を当時のニカラグア政府が総称したものであり、最初に生まれて最も規模が大きく戦争の主体となったのは、非公式に[[ホンジュラス]]を基地にして西部から越境攻撃を仕掛けてきた、旧ソモサ軍を主体とした純然たる傭兵部隊の'''ニカラグア民主軍'''(FDN)であり、数百人の兵力から始まったのが米国の援助などを受けて最大時には15,000人の兵力に達し、[[アルゼンチン陸軍]]や、[[イスラエル国防軍]]などに訓練され、[[ホンジュラス軍]]や駐ホンジュラス[[アメリカ陸軍]]や、[[アメリカ空軍]]の支援を受けていた。
 
二番目に生まれた組織は、[[ソモサ王朝]]時代に[[マナグア]]の国会宮殿占領事件を指導した、「ゼロ司令官(コマンダンテ・セロ)」こと、元FSLN司令官[[エデン・パストラ]]が率い、非公式に[[コスタリカ]]を基地にして南部から攻撃を仕掛けた'''民主革命同盟'''(ARDE)で、兵力は2000~3000人だった。
 
三番目に生まれた組織は、FSLNの[[スペイン語]]教育などの同化政策や、強制移住政策に反抗して立ち上がった、[[カリブ海]]岸の先住民[[ミスキート族]]を主体とした'''MISURASATA'''だったが、これはサンディニスタ政権が1984年にミスキート族に自治権を認めると1985年5月に和解が成立し、停戦した。
 
こうして彼らを[[低烈度紛争]]を行うレーガン大統領は「自由の戦士」と呼び、ニカラグアへの攻撃を賛美した。ニカラグアの[[ダニエル・オルテガ]]大統領は、こうした態度を鑑みて、率直に「レーガンは[[テロリスト]]だ」とことあるごとに語った。
 
革命によって成立した政権に対し、反対の側に立ったため、彼らは「コントラ」と呼ばれるようになった(スペイン語で[[反革命]]は"contra-revolucion")。
[[イラン・コントラ事件]]によって、[[ロナルド・レーガン|レーガン]]政権による援助が難しくなった時期に、「[[世界基督教統一神霊協会|統一教会]]」(統一協会)の教祖、[[文鮮明]]が、[[ロナルド・レーガン|レーガン]]政権の要請を受けて創設した新聞、『[[ワシントン・タイムズ]]』で'''コントラ'''に対し、1400万ドル(当時のレートで約35億円)を援助することを申し出た。