「田北鑑生」の版間の差分

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父の親員は大友氏の重臣であり(加半衆)、鑑生は初め[[大友義鑑]]の側近として仕える。[[大永]]6年([[1526年]])、謀反の疑いありとして[[佐伯氏]]の[[佐伯惟治]]討伐に父に従って[[栂牟礼城]]攻撃に参加。1534年([[天文 (元号)|天文]]3年)大内軍が[[豊後国|豊後]]に進行。大将は[[陶興房]]と[[杉重信]]率いる三千騎あまり。これに対し大友軍は本隊として[[吉弘氏直]]と[[寒田親政]]を大将として2800騎を送った。陶興房は休まず進軍し、奇襲をかけて大友の大将2人を討ち取ってしまう。これに別働隊として千人あまりを率いていた田北鑑生は敗れた本体を収容し、疲れていた大内軍に突撃した。激戦により杉重信を討ち取り、陶興房に傷を負わせて勝利した([[勢場ヶ原の戦い]])。この戦いの後、大内氏との和睦を願って神社を建設する。そのほかは大友館の修理も行なった事もある。
 
[[大友義鎮]]が当主になると[[加判衆]](家老)となる。筑前の方分となり、さらに[[大友晴英]]が大内家当主として迎えられる頃には加判衆筆頭となっている。[[小原鑑元]]の反乱や[[秋月文種]]の討伐に参加した。秋月攻めでは大功をたてたとされる。その後、筑後方分として現地に留まる。しかしその4年後の[[永禄]]4年(1561年)、毛利軍と[[門司城]]を巡って戦ったが([[門司城の戦い]])、補給路を断たれ利なくして撤退。退路で[[乃美宗勝]]らに待ち伏せを受けて攻撃を受け重傷を負い二、三日後に死去した。
 
後継は弟の鑑重(紹鉄)が継承した。