「松平忠和 (桑名藩主)」の版間の差分

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'''松平 忠和'''('''まつだいら ただとも''')は、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]の第5代[[藩主]]。奥平松平家7代。
 
宝暦9年(1759年)8月27日、[[紀伊国|紀伊]][[和歌山藩]]の第7代藩主・徳川宗将の九男として[[江戸]]赤坂の和歌山藩邸で生まれる。嗣子に徳川重倫がおり、9男であったことから相続権は無く、幼少時から部屋住みの身分であったが、このときに[[松平定信]]と交遊し、定信は忠和の力量を見抜き、のちに自らの著書で「英雄なり。学問も広く給ひ、天文暦学は殊に勝れてぞ聞ゆれ」と記している。
 
桑名藩の第4代藩主で異母兄に当たる松平忠功に実子が無かったため、[[寛政]]5年([[1793年]])9月2日に兄の[[養子]]となり、11月28日に兄が病気を理由に[[隠居]]したため、[[家督]]を継いで第5代藩主となる。藩政では松平定信の[[寛政の改革]]をならって寛政7年([[1795年]])11月に家臣の半知借上を行なって藩財政再建を目指し、[[中沢道二]]らを招聘して学問を奨励している。寛政12年([[1800年]])には藩法を制定して綱紀の粛正を図った。