「清水城 (出羽国)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
4行目:
[[文明 (日本)|文明]]10年(1476年)築城である。[[斯波兼頼]]のひ孫にあたる[[最上氏]]一門の成沢満久は、文明8年(1474年)に[[最上地方]]攻略のため、大蔵村新田(現白須賀)に楯を築いてこの地に進出。その2年後、最上川を見下ろす高台に清水城を築城した。以後、清水氏を名乗り、清水城は最上地方を巡る[[武藤氏]]、[[小野寺氏]]との戦乱の最前線として、また、最上地方南部の領国経営の中心として発展した。
 
清水の地は、最上川中流域の中心都市であり、[[日本海]]航路から最上川をさかのぼり、山形県内陸へと物資を運ぶための重要な中継基地でもあった。そのため、武藤氏にとっても手に入れたい重要な目標拠点であり、何度も武藤勢の攻撃を受け、逆に、最上氏の庄内進出の足がかりともなった。
 
清水氏5代の清水義高、本合海(現[[新庄市]]本合海)の戦いで武藤義増の軍勢と戦って討ち死にすると、その跡を継いだ6代
清水義氏は娘を[[最上義光]]の側室に差し出して関係を強化、さらに最上義光の3男を養子として迎え入れ、7代[[清水義親]]となった。余談ながら、大蔵村の由来は、清水義親が'''大蔵大輔'''であったことに由来する。しかし、清水義親は清水氏の養子となる以前に、[[豊臣家]]に近習として仕えていたことがあり、その縁で[[豊臣秀頼]]とも交わっていた。これが後年に悲劇となる。