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==背景==
グルジアでは1992年以降、シェワルナゼを最高指導者とした統治体制が築かれていた。シェワルナゼ政権は斬新漸進的で穏健な経済成長政策統治を推ていたが、しかしそのことが体制内に[[事なかれ主義]]を蔓延させ、政権周囲の一派にグルジアの経済成長を阻害する、蔓延していた[[汚職]]が拡大して行く原因となった。当時のグルジアは[[西欧]]の水準から見て経済の状態が非常に乏しいものであり(旧ソ連、旧東欧諸国の中では、経済は当初は比較的安定しており、[[東欧革命]]後の経済成長の退潮も影響を及ぼした)、また[[ロシア]]の支援を受けて事実上分離・独立状態にある[[アブハジア]]や[[南オセチア]]もグルジア政府の支配が及ばず、[[アジャリア自治共和国]]もグルジアからの分離を掲げる[[アスラン・アバシゼ]]の統治下にあった。シェワルナゼはこのような状況に対して急進的で[[弾圧]]的な態度は取らなかった。その結果、政治的、社会・経済的な危機は2003年11月2日の議会選挙直前に国民の不満が募り、シェワルナゼ派の「[[新グルジアのために]]」やアバシゼが率いる[[グルジア再生民主同盟]]の選挙での勝利に対し、[[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]が率いる野党[[国民運動]]や議員であった[[ニノ・ブルジャナゼ]]や[[ズラブ・ジワニア]]らが属する[[連合民主党]]はこの選挙結果に反発した。
 
==議会選挙と抗議運動==