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'''朽木 元綱'''(くつき もとつな、[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]]) - [[寛永]]9年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1632年]][[10月12日]]))は[[朽木晴綱室町時代]]後期・[[江戸時代]]初期大名
 
== 経歴 ==
[[朽木氏]]は[[近江国]][[高島郡]]朽木谷の豪族である。父・晴綱が[[1550年]]に父[[朽木晴綱|晴綱]]が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。従来[[室町幕府]]の[[奉公衆]]を務めていたが、[[1570年]]の朝倉攻めの際には[[織田信長]]の京都撤退('''朽木越え''')を助けて、その後は織田家、[[豊臣秀吉]]に仕えた。
 
[[室町幕府]]の[[奉公衆]]を務めていたが、[[1570年]]の朝倉攻めのとき、[[織田信長]]の朽木越えを助けて、その後は織田家の家臣となった。信長没後は[[豊臣秀吉]]に仕え、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では、当初は[[大谷吉継]]に従って西軍に属した。しかしものの、[[小早川秀秋]]が東軍に寝返ったことに呼応して元綱も[[脇坂安治]]や[[小川祐忠]]、[[赤座直保]]とともに東軍に寝返った。戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により、戦後減封(9590石)されたが、のち大名に復帰している(脇坂安治は、戦前から通款を明らかにしていたため、所領を安堵されている)
 
元綱の死後、その遺領は[[朽木宣綱]]・[[朽木稙綱 (土浦藩主)|稙綱]]ら3子に分割されてまったために、朽木宗家は[[大名]]の資格を失ってそれぞれ[[江戸幕府]]に仕える[[旗本]](4700余石)して仕えなった。だが、末子の稙綱が、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]の信頼を受けて大名として取り立てられたために、嫡流よりも庶流のほうが所領が上回るという現象が起きている。
 
[[Category:朽木氏|もとつな]]