「川上宗薫」の版間の差分

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牧師の子として生まれる。母と妹たちを長崎原爆で喪う。このため父は棄教。
 
[[九州大学]]英文科を卒業し、千葉県で高校の英語教師を務めるかたわら、[[北原武夫]]に師事して小説を学び、[[1955年|昭和30年]]『''或る目醒め''』でデビュー。
 
[[1961年]]、『[[新潮]]』6月号に小説「作家の喧嘩」を発表。この作品のモデルにされた[[水上勉]]から[[名誉毀損]]で訴えられそうになり、[[菊村到]]や[[田畑麦彦]]に調停を依頼したが失敗。このため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願し、『[[朝日新聞]]』の匿名コラムで「作家にあるまじき卑劣な根性」と批判されたことがある。一方、水上の側でも川上をモデルに小説『好色』を書いた
 
[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補に5回挙がったが受賞を逸し、娯楽小説の世界に転じる。『小説現代』[[1966年]]6月号に発表した「リボンの過失」で中間小説誌デビューを果たす。[[コバルト文庫|ジュニア小説]]を執筆する一方、官能小説の第一人者ともなる。[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補に5回なっている。
 
流行作家になってからは妻子と別れ、中野新橋の芸者と所帯を持ち、銀座の複数ホステスと同棲し、最後は30歳下の女子学生と結ばれた。
 
1985年10月13日、東京女子医大病院にて肝臓癌で死去。死後、成城の川上邸で[[色川武大]]が間借りしていた。
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