「鄱陽湖の戦い」の版間の差分

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== 戦いの始まり ==
朱元璋が南東から攻めてきた[[張士誠]]への応戦のために留守をしていた [[1363年]]、陳友諒は形勢逆転を狙って、巨艦数百艘、兵員60万と号する大船団を南昌に向ける。巨艦は紅色「丹漆」より赤く塗られていたという<ref name="gogan">[[呉晗]]著、[[堺屋太一]]訳注『超巨人・明の太祖朱元璋』、講談社文庫、1989年。</ref>。南昌を守る[[朱文正]]と鄧愈は火力を駆使し、85日間これを守った。この間に朱元璋は応天府に戻り、白色に塗られた船団と兵員20万を動員して決戦に向かった。陳友諒も南昌を囲む不利を悟って[[ハ陽湖|鄱陽湖]]に軍を移動し、両者は衝突した。
 
== 戦いの推移 ==
陳友諒の船団は、巨艦主義であり、風と波防ぐた艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。一方、朱元璋の船団は、小型船が中心であり、火力を重視していた。さらには、朱元璋は決戦の4日前、ひそかに伏兵を湖口に伏せていた<ref name="gogan"/>。
朱元璋の軍は小型船が多く、陳友諒の巨艦に恐れをなして戦いは不利であり、陳友諒の配下の勇将張定辺が一時朱元璋の旗艦に肉薄するほどの苦戦となった。しかし陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、ユ(輸-車)通海率いる火砲船団が鈍重な陳友諒の船舶を次々を火だるまに変えていき、戦いの主導権は徐々に移りつつあった。戦いの3日目、にわかに東北の風が吹くと、朱元璋は決死隊による火船七艘を陳友諒に突っ込ませたため、折からの強風により密集した巨艦は炎上し「煙焰天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図と化した。陳友諒軍は斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北を喫することとなった。さらに陳友諒の弟で勇略を謳われた陳友仁が死亡したことで、士気は激しく低下した。
戦闘は当初かなり互角で、朱元璋の乗る船も一時は敵に攻め込まれそうになったという。しかし、陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、結局は軽快で火力重視の船を持つ朱元璋の船団が押す形になってきた。朱元璋は漁船に火を付けて風上から差し向け、鎖で繋がれた陳友諒の船団を火達磨にしたともいう<ref name="danjo">[[檀上寛|檀上 寛]]、『明の太祖 朱元璋』白帝社、1994年</ref>。
陳友諒は逃亡を図るも、朱元璋が湖口の地を伏兵でふさいでいたため、数日の睨み合いとなった。兵站線を断たれたため、陳友諒軍からは寝返りが相次いだという。結局、陳友諒は湖口の突破を試みるが、矢に当たって戦死した。
 
== 戦いの結果 ==
陳友諒軍の一部は武昌に戻るが、大将を失った穴は大きく、結局、息子の[[陳理]]が[[1364年]]に朱元璋に降伏した。一方、朱元璋側も、7千人余りの兵を失ったという<ref name="gogan"/>この結果、朱元璋の主要な敵は張士誠と、元朝政府を残すのみとなった
この結果、朱元璋の主要な敵は張士誠と、元朝政府を残すのみとなった。
 
== 脚注・参考文献 ==