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'''シリル・ライオネル・ロバート・ジェームズ''' ('''Cyril Lionel Robert James''', [[1901年]][[1月4日]] - [[1989年]][[5月19日]]) はアフリカ系[[トリニダード・トバゴ|トリニダード]]人の[[ジャーナリスト]]/教師/[[社会主義]][[政治哲学|理論家]]/[[作家]]。
== 生い立ち ==
ジェームズは[[イギリス帝国|イギリス植民地]]時代のトリニダードで生まれ、[[ポートオブスペイン]]のクイーンズ・ロイヤル・カレッジで学んだ。それから[[クリケット]]記者兼フィクション作家になった。後に母校で英語教師を務め、教え子には[[エリック・ウィリアムズ]]もいる。ラルフ・デ・ボワシエール、[[アルバート・ゴメス]]、アルフレッド・メンデスらと反植民地主義の文芸誌『ザ・ビーコン』の同人となった。[[1932年]]ジェームズは作家としての成功を求め[[イギリス]]・[[ランカシャー]]のネルソンへ渡り、『[[ガーディアン|マンチェスター・ガーディアン]]』で働いた。また[[レアリー・コンスタンチン]]の自伝を書いて彼を助けた。
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[[1945年]]以降 WP は革命闘争が減少するとの見通しを示した。J-F傾向は対照的に闘争が増加すると予想し、WP より労働者寄りになっていた SWP も同様の見通しを示していた。そのため彼ら J-F傾向は独立した小グループとして数ヶ月大量の出版をした後1947年に SWP に加入した。
 
ジェームズは[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の革命党の[[前衛]]の概念を否定しつつ自らを[[レーニン主義|レーニン主義者]]と規定し、社会主義者が興隆した[[黒人ナショナリズム|黒人ナショナリスト]]運動を支援するように議論した。彼は[[1949年]]までに[[前衛党]]の概念を否定していた。このため彼らはトロツキスト運動から離れ、通信出版委員会に改名した。[[1955年]]に委員会のメンバーの半数近くがラーヤ・ドゥナエフスカヤの指導を離れ、[[マルクス人道主義]]傾向をつくり、[[ニュース通信委員会]]を組織した。ラーヤ・ドゥナエフスカヤ派が多数派であったか少数派であったかは議論の対象となっている。歴史家のケント・ウォーセスターはドゥナエフスカヤ派が多数派であったと主張し、[[マーティン・グラバーマン]]は『ニューポリティックス』誌上でジェームズ派が多数であるとした。[[1962年]]にはグレース・リー・ボッグスと[[ジェームズ・ボッグス (活動家)|ジェームズ・ボッグス]]がより[[第三世界主義]]を追求するために委員会から分離した。マーティン・グラバーマン含むジョンソン派はジェームズの英国からの助言を受けフェイシング・リアリティと改名し、1970年にジェームズの意に反し解散するまで活動した。彼は自身のライフワークをレーニン主義の理論と実践の拡張と看做したものの、ジェームズの著作はマルクス主義思想の内の[[自治主義]]の流れの発達に影響力があった。
 
== トリニダードへの帰還と晩年 ==
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ロンドンのハクニーの公立図書館は彼に因んで名付けられた。[[2005年]]の20周年記念日のレセプションには、彼の未亡人セルマ・ジェームズが出席した。
 
== クリケットに関する著作 ==
CLR ジェームズはクリケット記者としても特に[[1963年]]の自伝的な作品 ''"Beyond a Boundary"'' でよく知られている。これはクリケットの本の中でも影響力のある業績と考えられており、これまでに書かれたクリケットに関する最高の単行本として(または何れのスポーツでも最高の本とさえ)挙げられることがある。
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* [http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1460261,00.html ''Obituary: Constance Webb, Writer wife of CLR James''] by [[キャリル・フィリップス|Caryl Phillips]]. ''"The Guardian"''. Friday April 15, 2005. Retrieved April 15, 2005.
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[[Category:トリニダード・トバゴの人物]]
[[Category:イギリスの歴史学者]]