「北大路魯山人」の版間の差分

帰国後の[[1910年]](明治43年)に[[長浜市|長浜]]の素封家・河路豊吉に[[食客]]として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は'''福田大観'''の号で[[北国街道安藤家|小蘭亭]]の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する[[竹内栖鳳]]がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の[[土田麦僊]]らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。
 
[[1915年]]([[大正]]4年)、福田家の[[家督]]を長男に譲り、自身は[[北大路]]姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・[[金沢市|金沢]]の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。そして[[1921年]](大正10年)に会員制食堂「'''美食倶楽部'''」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞うなどしながらそこで使用する食器や料理を自ら創作していた。[[1925年]](大正14年)[[3月20日]]には[[東京]][[永田町]]に[[料亭]]「'''星ヶ岡茶寮'''」を創業した。<ref>美食家として名を通した割に[[フランス料理]]への評価は低く、渡仏に訪れた著名な鴨料理店で「ソースが合わない」と持参したわさび醤油で食べたこともある。また[[漫画]][[美味しんぼ]]の中で、一部彼をモチーフにしたという海原雄山がこれと同様の行為をした</ref>。
 
戦後は「美食倶楽部」の拠点・星ヶ岡茶寮が人手に渡るなど不遇な生活を過ごすが、[[1954年]](昭和29年)に[[ロックフェラー]]財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される。翌[[1955年]](昭和30年)には[[重要無形文化財]]保持者([[人間国宝]])に指定されるもこれを辞退。1959年(昭和34年)に[[肝吸虫]]<ref>肝吸虫は魯山人の好んだ[[タニシ]]から寄生したとする論説もあるが、肝吸虫の第一中間[[宿主]]となるのは人間の食用にならず真のタニシ類とは縁の遠いマメタニシであり、なおかつヒトへの感染はマメタニシからセルカリア幼生が移動した第二中間宿主のフナやコイ、モロコのようなコイ科魚類の生食から起こる。食用となるタニシの体内の幼生には肝吸虫の幼生は存在せず、魯山人への推定感染経路は別に求めなければならない</ref>、つまりいわゆる肝臓ジストマとも呼ばれた[[寄生虫]]による[[肝硬変]]のため死去。
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