「パッツィ家の陰謀」の版間の差分

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Tatsujin28 (会話 | 投稿記録)
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== その他 ==
*関係者ベルナルドが[[コンスタンティノープル]]に逃れていたところを捕らえられ、[[1479年]][[12月]]に絞首刑に処された。この模様を[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]がスケッチに残している。また[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]が市庁舎の壁に[[フレスコ画]]で処刑の様子を描いたが、現存していない。
{{雑多な内容の箇条書き|date=2007年11月}}
 
*関係者ベルナルドが[[コンスタンティノープル]]に逃れていたところを捕らえられ、[[1479年]][[12月]]に絞首刑に処された。この模様を[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]がスケッチに残している。また[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]が市庁舎の壁に[[フレスコ画]]で処刑の様子を描いたが、現存していない。
*なお、パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児がのちの教皇[[クレメンス7世_(ローマ教皇)|クレメンス7世]]である。
 
*後に発掘されたジュリアーノの遺骸は後に発掘された。全身腐敗していたが、遺骨の鑑定の結果頭部に大きな損傷を受けていたことが確認されている。
*[[2004年]]になって、[[アメリカ]]の研究者マルチェロ・シモネッタがパッツィ家の関係者などが残した暗号文書を解読し、[[ウルビーノ]]公[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]が事件の首謀者であるとする説が唱えられている。
 
*[[2004年]]になって、[[アメリカ]]の研究者マルチェロ・シモネッタがパッツィ家の関係者などが残した暗号文書を解読し、[[ウルビーノ]]公[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]が事件の首謀者であるとする説唱えられている
 
== 関連項目 ==