「三淵晴員」の版間の差分

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明応9年(1500([[1500]])、[[和泉国|和泉]][[守護]][[細川元有]]の子として生まれる。母の縁により、[[征夷大将軍|将軍]]側近の[[三淵晴恒]]の養子となった。幕臣として12代将軍[[足利義晴]]に仕え、[[和泉国]][[松崎城]]主、[[山城国]][[大法寺城]]主となる。[[天文_(元号)|天文]]16年([[1547年]])に義晴・[[足利義輝|義輝]]親子に従ってが[[管領]][[細川晴元]]と戦ったが敗北し、[[近江国]][[坂本 (大津市)坂本]]に落ち延びるときもこれに従っ。永禄8年([[1565年]])に将軍義輝が討たれた後はその弟・[[足利義昭|義昭]]に仕えた。永禄13年([[1570年]])3月1日に死去。享年71
 
子の[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)は兄・[[細川元常]]の養子となり、近世[[細川氏|細川家]]の祖となった。藤孝の生母は後妻の[[智慶院]]で、彼女は足利義晴から下げ渡され晴員の妻となったため、一説には藤孝は義晴の落胤であるという。
義輝暗殺後は[[足利義昭]]に仕えた。永禄13年(1570年)3月1日に死去。享年71。
 
後妻の智慶院は藤孝の生母で、彼女は足利義晴から下げ渡され晴員の妻となった経緯があるため、藤孝を義晴の落胤とする説がある。
 
[[Category:細川氏|みつふちはるかす]]