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'''村岡藩'''('''むらおかはん''')は[[明治時代]]初期の藩の1つ。[[但馬国]]七美(ひつみ)郡の五郷(現在の[[兵庫県]][[美方郡]][[香美町]]村岡区周辺)を領した。藩庁は[[村岡陣屋]]に置かれた。
 
[[室町時代]]には全国の六分の一を支配するとさえ言われた[[守護大名]][[山名氏]]の末裔である[[山名豊国]]が、[[関ヶ原の戦い]]の戦功により、[[徳川家康]]から七美五郷6700石を与えられたのが藩の始まりである。その後の領主は新田開発や産業の振興などをすすめて実高を増やしていき、[[1868年]]、明治新政府によって1万1000石への高直しが認められて立藩した。
 
== 藩史 ==
山名氏は[[応仁の乱]]以降、急速に衰退し、戦国末期には但馬国と[[因幡国]]を2氏に分かれて領有するのみとなっていた。かろうじて因幡国を保持領有していた[[山名豊数|豊数]]の弟である[[山名豊国|豊国]]兄が[[鳥取城]]を家臣に奪われるや、[[尼子氏]]残党の力を借りて、鳥取城を奪い返し自ら城主となった。しかし、[[豊臣秀吉]]が[[織田信長]]の命を受けた[[豊臣秀吉]]が[[山陰地方]]に侵攻してくると、豊国は真っ先に降伏したため家臣に見限られ、因幡国からて城を追放された。
 
以後、豊国は豊臣秀吉に仕えて[[御伽衆]]の1人となり、秀吉死後は[[徳川家康]]に接近して、する。[[関ヶ原の戦い]]では東軍に参加した。そして、戦功により但馬国七実五郷6700石を与えられると、兎束村に陣屋を築き、土いて名を福岡と改めた。山名豊国の知行は1万石に達しなかったため、旗本として扱われたが、氏は名族ため、出自により[[旗本の中]]でも別格とされ、後に[[交代寄合]]表御礼衆のつとされた。
 
豊国は[[連歌]]の名手で、当代きっての教養人でありまたかつの出身ということで、徳川家康に気に入られ、度々、[[駿府城]]に招かれた。豊国は家康の側近という立場利用して、零落した但馬山名氏の当主を旗本にとりたててもらったりして、への取立を願うなど山名氏の復活再興に尽力した。また、かつて因幡国から追放したかつての家臣たちが流浪しているのを聞き、改めて家臣として召抱えたりしたという。ただ、変わり身が早かったせいか、豊国に関する後世の評価は芳しくない。
 
[[1642年]]、第3代領主の[[山名矩豊|矩豊]]が黒野村に陣屋を移し、土名を'''村岡'''と改めた。さらに[[1806年]]、第8代領主の[[山名義方|義方]]が陣屋を尾白山に移し、家格にふさわしい体裁を整えた。
 
村岡の地は山がちで耕地が少ない土地だったため、歴代領主は鉱山の開発や子牛市の開催など産業の振興につとめた。特に、第10代[[山名義問|義問]]は新田の開発や教育の振興に力を尽くした名君われている。
 
[[1868年]]、新政府により1万1000石への高直しが明治新政府に認められ、山名氏は諸侯に列し村岡藩が成立した。翌年[[版籍奉還]]により[[村岡県]]となり、[[1871年]]の[[廃藩置県]]によって、では[[豊岡県]]に編入された。
 
最後の村岡県知事[[山名義路|義路]]は1871年に12歳で家督を相続し、後に陸軍少佐となった。[[1884年]]、[[華族]]制度の発足に伴って、義路は[[男爵]]に叙せられ、後に[[貴族院]]議員にも選出されている。
 
最後の村岡県知事・[[山名義路]]は1871年に12歳で家督を相続し、後に陸軍少佐となった。[[1884年]]、[[華族]]制度の発足に伴って、義路は[[男爵]]に叙せられ、後に[[貴族院]]議員にも選ばれている。
 
== 歴代藩主 ==
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#[[山名義済|義済]]〔従五位下、因幡守〕
#[[山名義路|義路]]〔従四位、因幡守〕
 
 
== 関連項目 ==
*[[藩の一覧]]
 
 
==外部リンク==