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[[延徳]]元年(1489年)、[[関白]]・九条政基の末子として生まれる。母は武者小路隆光の娘で、母方の従兄弟に[[室町幕府]]11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義澄]]がいる。
 
[[管領]]の細川政元には実子が無かったため、[[文亀]]2年([[1502年]])9月、澄之を家督継承者として[[養子]]になり、政元から[[丹波]]守護職を与えられた。ところが文亀3年([[1503年]])5月、政元は澄之を[[廃嫡]]し、阿波守護家の[[細川義春]]の子・[[細川澄元]]を新たに養子に迎えて後継者に指名した。その後は養父・政元の命令に従って、[[永正]]3年([[1506年]])には養父・政元の命令に従って[[丹後]]の[[一色義有]]討伐に赴いたが、敗退している。
 
永正4年(1507年)6月、澄之の家臣政元[[被官]][[香西元長]][[薬師寺長忠]]らが政元を暗殺する[[永正の政変錯乱]]が起こる。さらに元長・長忠らは澄元の[[暗殺]]も計画したが、澄元は家宰重臣・[[三好之長]]の機転によって[[近江国|近江]]に逃げられたその上で、澄之は元長らによっ迎えられて丹波から上洛し、自ら政元の葬儀を催したことで第11代将軍・足利義澄から政元細川管領家(京兆家)の後継者と認められた。
 
なお、澄之自身は政元の暗殺計画にはほとんど関与しておらず、若年の澄之を新たな細川京兆家当主として擁立することで幕政三好之長ら阿波の勢力牛耳ろうと企んでい排除し元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。
 
しかし近江に逃れた澄元と三好之長は近江の[[国人]]を味方に引き入れ、8月1日には逆襲をはかって京都に攻め上った。澄元と同じく政元の養子であった[[細川高国]]も澄元に加担したため、澄之は敗れて戦死した。享年19。このとき、元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊したのであった。
 
{{先代次代|[[細川氏|細川京兆家歴代当主]]|細川澄之|[[細川政元]]|[[細川澄元]]}}