「大日本政治会」の版間の差分

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1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎を総裁とする大日本政治会が結成された。[[幹事長]]には反主流派の[[岸信介]]を予定していたが、[[松岡洋右]]の総裁擁立を希望していた岸はこれを拒否して[[護国同志会]](後述)に参加してしまう。このため、幹事長には[[松村謙三]]、[[総務会長]]には[[金光庸夫]]、[[政務調査会長|政調会長]]には[[勝田永吉]](後に[[東郷実]]に交代)が就任した。だが、[[衆議院議員]]353名の参加を得たものの、翼賛政治会に参加していた[[貴族院議員]]は参加見送りを決定し[[児玉秀雄]]ら数名が個人参加する留まり、また先の内紛中に[[大日本翼賛壮年団]]出身議員は[[3月10日]]に[[翼壮議員同志会]](翼同・21名)を結成、旧翼賛政治会反主流派も[[3月11日]]に護国同志会(30名)を結成して合流を拒否、[[無所属]]25名・欠員37名を計算に含めると、日政会は衆議院全体では75.7%、欠員者を除くと82.3%を占めるに過ぎず、翼賛体制が本来目指した「一国一党」とはかけ離れたものとなった<ref>更にその後日政会所属衆議院議員2名が死去、2名が離脱(翼壮・無所属に各1名ずつ移籍)している。</ref>。
 
南は結成時に「一億国民の総力を迅速に結集して、これを決戦の戦場に直結する」と挨拶をしたが、実際に事績として残されたのは[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]][[組閣]]の際の[[政務次官]]・[[参与官]]人事を巡って内紛を起こした事と第87帝国議会(6月2日から12日まで)への出席した事のみであった<ref>唯一の功績と言えるものに本土決戦に備えて、戦時中に限定して国会議員の[[勅任官]]への自由任官を復活を政府に認めさせたというものがあるが、施行日が終戦の当日であった([[8月15日]])ために結果的には意味を成さなかった。</ref>
 
[[日本]]敗戦後の[[9月7日]]に代議士会で解散が決議され、7日後に正式に解散されることになった。