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'''模刻'''(もこく)とは、
#彫刻や碑などの彫塑物を模写して刻し、複製を制作すること。純粋な模倣のために行う場合、技法を学ぶための練習手段として行う場合、現物が摩滅・破損するなどしてそのままでは保存・鑑賞に堪えない時に行う場合、また美術館などで直接展示に支障がある時に展示用として行う場合がある。
#1のうち、[[仏像]]の複製を制作すること。僧侶などが修行の一環として行うことがあった。
#1のうち、[[篆刻]]で[[官印]]や先人の刻した印を模倣し刻すること。篆刻技術の向上に必須とされ、多くの篆刻家がこれを行っている。
#近世以前の[[木版印刷]]において、現物を参照もしくは版下として用い直接貼りつけて版木に起こし、既成の本や書画を複製すること。版木が磨耗して使えなくなった場合などに行われた。版木間での複製もこう呼ばれることがある。
#[[書道]]において、書蹟を石や木に模写して彫りつけ保存・享受すること。またはそのようにして保存・享受された書蹟。'''「摹刻」'''とも書く。この項で詳述。
 
==概要==
模刻は[[紙]]に書かれた書蹟を保存する時に行われるもので、石や木に原本の文字を精巧に模写し、これをたがねやのみによって彫りつける。この際字は鏡文字にはせず、原本そのままの向きで彫る。つまり、紙から石や木への媒体変換を行い、保存と鑑賞に供するのがこの方法である。
 
ただし刻まれた石や木そのものが用いられることはなく、拓本を適宜採って用いる。[[書道]]の書蹟で、時折元が碑でもないのに拓本になっているものがあるのはこのためである。このような書蹟を'''「刻帖」'''と称し、これに対して紙のものを'''「墨帖」'''と呼ぶこともある。
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この時代の政治的混乱をすり抜けて、書道界ではその後の書を大きく変える書家が登場した。[[東晋]]の[[王羲之]]・[[王献之]]親子である。彼らは[[隷書]]の走り書きにすぎなかった[[行書]]と、それを整えただけの[[楷書]]を芸術的に完成させ、中国書道界に衝撃と一大変革をもたらしたのである。
 
このため「書聖」とまで呼ばれた彼らやその流儀を受け継いだ人々の書を学びたいと思う書家は多く、その複製が求められた。写真もコピーもない当時、紙にしたためられている文字を写し取るには原本を見ながらの模写しか方法がない。しかし文字の形を写すからにはそれ相応の技巧が必要になり、とても誰にでも出来るというような仕業ではなかった。
 
この問題を解決するために生まれたのが、「搨模」(とうも)と呼ばれる方法である。これは「双鉤填墨」という方法を用いるもので、まず写したい作品の上に紙をかぶせ、文字の輪郭だけを細く写し取り、その上で中を黒く塗りつぶすという一種のなぞり書きであった。
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たとえば[[王羲之]]・[[王献之]]の親子、いわゆる「二王」には真筆が遺されていない。自然に散逸した結果であるが、代表作「[[蘭亭序]]」だけはせっかく真筆が残っていながら、[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]の過剰な独占欲のために陵墓に埋められ、残る機会を失うという不幸に見舞われた。我々がそんな「二王」の書蹟を知ることが出来るのは、この模刻によって累々と書蹟が伝写されて来たからに他ならない。事実、蘭亭序の善本とされるものの中には「神龍半印本」「定武本」のような模刻本が存在する。またこの親子だけでなく、もし模刻が存在しなければ書蹟が伝わることのなかったと思われる有名書家も数多い。
 
このようなことを考えると、書道界における模刻の功績は決して軽くはなく、むしろその存在に負うところが多いことが分かる。このため模刻本と対することは書道研究の上で避けられない事態であり、そのような時は「模刻」という行為の特性とその行為がはらんでいるリスクを理解した上で、よく考えて対応使用する必要がある。
 
==参考文献==