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'''手島堵庵'''(てじまとあん、[[享保]]3年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]([[1718年]][[6月12日]]) - [[天明]]6年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1786年]][[3月8日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[心学者]]。豪商[[上河蓋岳]]の子で、母は[[上河氏]]。子に[[手島和庵]]がいる。本名'''上河喬房'''。通称を'''近江屋源右衛門'''という。字は応元、別名は東郭。
 
18才の時に[[石田梅岩]]に師事。[[元文]]3年([[1738年]])開悟し、[[宝暦]]12年([[1773年]])頃に家業を和庵に譲る。その後は、[[石門心学]]の講説を行い、兄弟子たちの相次ぐ死もあって、名声をあげる。隠居した当初は、[[京都]][[富小路]]の[[五楽舎]]に住み、講学の場とするも、門弟の増加により、[[安永]]2年([[1773年]])に[[五条]][[東洞院]]に[[修正舎]]、[[安永]]8年([[1779年]])には[[西陣]]の[[時習舎]]、[[天明2年]]([[1782年]])には、[[河原町]]に[[明倫舎]]を建て、石門心学の普及、宣伝に尽力する。
 
弟子には、[[中沢道二]]・[[布施松翁]]・[[上河淇水]]・[[脇坂義堂]]・[[薩埵徳軒]]などがいる。