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'''伊東祐勝'''(いとうすけかつ、[[元亀]]元年([[1570年]]) - [[文禄]]2年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1593年]][[7月12日]]))は[[日向国]]の[[戦国武将]]。[[伊東義祐]]の孫に当たり、父は[[伊東義益]]、母は[[一条房基]]の娘・阿喜多。[[伊東義賢]]は兄にあたる。字「小右衛門尉」。
 
父・義益が[[1569年]]に病死したため、祖父・伊東義祐の手によって養育された。[[天正]]5年([[1577年]])、[[伊東氏]]は没落し日向から逃亡、母の縁者である[[大友氏]]に助けられ、その保護を受けたという。この時に[[大友義鎮|大友宗麟]]の影響を受けてキリシタンとなり「ジェロニモ」の洗礼名をもらう。また非常に有能な少年であり、特に選ばれて[[安土町#歴史|安土]]の[[セミナリオ]]に留学していた。後に[[天正遣欧少年使節]]の代表の候補者となるが、安土留学中で出発に間に合わないため外された。[[天正]]15年([[1587年]])、[[九州征伐]]の後、叔父・[[伊東祐兵]]が[[飫肥城]]に復帰すると帰参した。
 
[[文禄の役]]で伊東勢の一人として朝鮮に出兵するも病気となり、帰国。ところが船が暴風雨に襲われ、[[石見国]]まで流されてしまい、その地で病状が悪化し死去。享年24。没月日には「[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]」説もある。史料上では病死とされるが、兄・義賢と前後して没していることから、伊東祐兵との家督争いを防ぐために家臣により暗殺されたという説もある。