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'''西光 万吉'''('''さいこう まんきち'''、本名清原一隆、[[1895年]]-[[1970年]])は、大正・昭和期の部落解放・社会運動家、政治運動家、著述家。[[全国水平社]]設立の中心人物で、[[荊冠旗|水平社旗]]の意匠の考案者および[[水平社宣言]]の起草者として知られる。昭和初期には[[国粋主義]]に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮、[[ファシズム]]を強力に推進したが、戦後に至ると一転して日本の再軍備に反対した
[[画像:Mankichi Saikou Suiheisha.jpg|frameright|thumb|200px|若き日の西光]]
==人物==
[[マルクス主義|マルキシズム]]を背景として[[天皇制]]を敵視する運動家・解放理論家が(特に戦後)多数を占めるなかで、彼は[[天皇]]を部落解放の柱であるかの如く位置付け、運動家として歩んで以降、一貫して天皇制への信頼を示した。
 
また昭和初期には[[国粋主義]]に傾倒し、皇国農民同盟という極右団体を指揮したが、戦後はその後悔から日本の再軍備に反対し、一切[[部落問題]]には関わらなかった。
 
絵画にも優れ、[[1913年]](大正2年)に[[国民美術展覧会]]で入賞したほか、[[1914年]](大正3年)には[[二科展]]で入選を受けている。
*人権標語などにおいてよく用いられる有名なフレーズ'''人間に光あれ'''(水平社宣言の締めの一文)が多くの場合において『にんげんに~』と読まれていることについて、これを苦く思っていた彼は、『あれは'''じんかん'''と読むのである』と、その理念とともにたびたび説明していたという。
*[[住井すゑ]]著「[[橋のない川]]」に登場する小森村安養寺の息子、村上秀昭(秀坊ん)のモデルとなる。秀昭は、出自を秘匿した上で進学し画家を志すが激しい差別を前に挫折、そして水平社の設立に奔走する眉目秀麗で才能ある男子である(ただし作中の彼は天皇制に反対する)。
==略歴==
*[[1895年]](明治28年)、[[奈良県]][[南葛城郡]](現在の[[御所市]]域内)に村の[[穢多寺|穢寺]]たる西光寺([[浄土真宗本願寺派]])の長男として生まれる。
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*[[1933年]](昭和8年)、[[共産主義]]から[[転向]]して仮釈放ののち阪本とともに『街頭新聞』を発刊、言論活動を行うとともに[[大日本国家社会党]]に入党。
*[[1970年]](昭和45年)、和歌山市日赤病院にて没する。享年75。
 
==特記事項==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2007年10月|ソートキー=さいこうまんきち}}
*[[マルクス主義|マルキシズム]]を背景として[[天皇制]]を敵視する運動家・解放理論家が(特に戦後)多数を占めるなかで、彼は[[天皇]]を部落解放の柱であるかの如く位置付け、運動家として歩んで以降一貫して天皇制への信頼敵意拒絶した。
*生涯において所属した団体は多岐に亘っている。燕会、日本社会主義同盟、労働農民党、[[日本共産党]]、大日本国家社会党、皇国農民同盟、[[日本社会党]]、そして全国水平社。なお、戦後は[[部落問題]]に一切関わらなかった。
*絵画の才覚優れており、[[1913年]]([[大正2年]])に[[国民美術展覧会]]で入賞したほか、[[1914年]]([[大正3年]])には[[二科展]]における入選受けている。水平社の旗印である[[荊冠旗]]([http://www.jca.apc.org/~hirooka/keikan.jpg])は、西光がデザインしたもの
*人権標語などにおいてよく用いられる有名なフレーズ'''人間に光あれ'''(水平社宣言の締めの一文)が多くの場合において『にんげんに~』と読まれていることについて、これを苦く思っていた彼は、『あれは'''じんかん'''と読むのである』と、その理念とともにたびたび説明していたという。
*[[住井すゑ]]著「[[橋のない川]]」に登場する小森村安養寺の息子、村上秀昭(秀坊ん)のモデルとなる。秀昭は、出自を秘匿した上で進学し画家を志すが激しい差別を前に挫折、そして水平社の設立に奔走する眉目秀麗で才能ある男子である、村上秀昭('''秀坊ん''')のモデル(ただし作中の彼は天皇制に反対である)。
 
==関連書籍==
*西光万吉著作集 全四巻 ([[涛書房]])