「飛騨高山藩」の版間の差分

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== 略史 ==
[[三木氏]]、[[姉小路氏]]ら旧[[飛騨国]][[国司]]らの攻略に活躍した[[金森長近]]が、[[天正]]14年([[1586年]])に国主として入府し。[[天正]]16年([[1588年]])より[[高山城]]の築城を行い、[[慶長]]5年([[1600年]])までには本丸、二の丸を完成させていた。[[関が原の合戦]]にて徳川方についた金森長近の功により、[[美濃国]][[上有知(こうづち [[岐阜県]]18[[美濃市]])18,000石、[[河内国]][[金田([[大阪府]][[守口市]]30)30,000石を加増され、ここに飛騨高山藩初代藩主となる。
 
金森家の統治は六代一〇七年間続いたが、[[元禄]]5年([[1692年]])に[[金森頼時]]の代に突然[[出羽国]]上ノ山([[山形県]][[上山市]])に移封となる。これは飛騨高山の豊富な資源(金・銀・銅、木材等)に幕府が目をつけたとの説と、当時幕府の[[側用人]]に外様大名ながら抜擢されていた頼時に不手際があったとの説等があるが、この後飛騨高山は幕府[[天領地]]となり明治に至ることもあり、前者が信憑性が高い。
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===天領===
(1693年 - 1871年)
 
== 領地 ==
 
長近は関ヶ原の合戦の後に領した美濃国上有知の長良川畔に、物資輸送の玄関口として'''上有知湊'''を整備した。高山へと通ずる津保街道も整備し、製紙と養蚕業、林業を育成。長良川下流への舟運の拠点として栄えた。上有知は長近の子の[[金森長光]]の領地となっていたが、幼くして没し、幕府に取り上げられ[[尾張藩]]領になってしまう。
 
== 関連事項 ==