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'''テオダハド''' ('''Theodahad'''、[[イタリア語|伊語]]:'''Teodato''', - [[536年]]12月) は、 [[トゥーシア]]公、後の[[東ゴート王国|東ゴート]]の第四代国。イタリア語読みあるはテオダート大王[[テオドリック|]]の妹アマラフリダの息子で、テオドリーコ]]ックの甥で、にあたる。 [[アマラスンタ]]から王位を与えられたが、当初は共同統治君主だっ者として指名されたが、反旗を翻し、王位を独占した。
 
しかし、アマラスンタに反旗を翻し、彼女を追放して[[ボルセーナ湖]]で殺した後、[[東ローマ帝国|ビザンティン]][[皇帝]][[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]に対し無駄に反抗し続けた。
==生涯==
皇帝は、将軍[[ベリサリウス]]を差し向け、536年に[[ナポリ]]を征服する。追い詰められたテオダートは、後継に任命された同族の[[ゴート人]][[ウィティギス]]に倒された。
アマル家の血筋で、アマラフリダが[[ヴァンダル王国]]に嫁ぐ前に、記録に残っていない男性との間にもうけた子である。トスカーナ地方を領地としていたため、フランク王国から[[トゥーシア|トゥーシア公]]と呼ばれていたが、後に東ゴート王国が危機的状況に陥った時、トスカーナの領地を[[東ローマ帝国]]に移譲し、[[コンスタンティノポリス]]で安楽な生活を送ろうと試みたこともある。また、危機に際しても、優柔不断で逃亡を試みるなど適切な対処ができなかった。このような性格のため、テオドリックにたいへん嫌われ、アマル家の出自であったにもかかわらず、彼に告発されて2度に渡り[[法廷]]に立たされたこともある。
 
テオドリックの死後、テオダハドは反アマラスンタ派の首領となり、将軍トゥリンやキュプリアヌスらとともに、[[532年]]から[[533年]]にかけてアマラスンタに圧力をかけた。しかし、アマラスンタはフランク王国のアレラテ(現[[アルル]])侵攻の際に反対派の将軍を暗殺することに成功。主要なメンバーを更迭したため反対派の勢力は衰えた。テオダハドはアマル家の血筋であったため、[[534年]]に共同統治者に指名されはしたが、アマラスンタによって実権は剥奪された。このため、同年末、テオダハドは突如[[反乱]]を起こし、アマラスンタを追放して東ゴート王国の王位に就いた。アマラスンタはウォルシニィ湖(現[[ボルセーナ湖]])に幽閉され、さらに彼女に恨みを持つ人物に暗殺されたが、この措置は[[イタリア半島]]の奪回を目論む[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]][[ユスティニアヌス1世|ユスティニアヌス]]に格好の口実を与えることになる。
 
東ローマ帝国は、アマラスンタ暗殺の報復として将軍[[ベリサリウス]]率いる艦隊を[[シチリア島]]に差し向け、これを陥落させた。加えて[[ダルマティア]]からは将軍ムンド率いる陸戦部隊がイタリアを目指した。テオダハドは皇帝使節ペトルスに対して交渉を行い、事態の沈静化を図ったが、カルタゴの反乱によってベリサリウスが北イタリアに赴き、ムンド率いる陸上部隊がゴート軍によって殲滅させられると、一転してペトルスを投獄。東ローマ王国に対して対決姿勢をとり始めた。が、すぐに東ローマ帝国はダルマティアを奪還。カルタゴを抑えたベリサリウスは再びイタリア半島を目指し、ほとんど抵抗なく北上した。3週間の包囲の後、536年に[[ナポリ]]を征服。追い詰められたテオダハドはゴート軍の集結するローマに赴いたが、煮え切らない態度に業を煮やしたゴート族たちは、536年11月、テオダハドに対して退位を要求した。これに慌てたテオダハドはラヴェンナに逃亡したが、その途上、12月初旬にゴート軍の総司令官で、後継に任命された将軍[[ウィティギス]]の命を受けた刺客に暗殺された。
 
 
== 参考文献 ==
* Herwig Wolfram & Thomas J. Dunlap『History of the Goths』(University of California Press、1990年) ISBN 0520069838
* Peter Heather『The Goths』(Blackwell Publishers、1998年) ISBN 0631209328
* 松谷健二『東ゴート興亡史 <small>東西ローマのはざまにて</small>』(中公文庫、2003年) ISBN 4122041996