「アニッタ」の版間の差分

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(de:Anitta21. November 2007 um 11:28 Uhr 版の翻訳に基づき作成し、加筆)
 
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彼が従えたという「王」は、王とはいえ「村の王」だったかもしれず、彼の「王国」がどの程度の規模だったかは不明である。それは彼が''「1400人の兵士と40両の[[チャリオット|戦車]]を率い」''と誇らしげに記していることから窺える。ヒッタイト人は宗教的理由から([[古代エジプト]]の[[ファラオ]]とは対照的に)記録に誇張をしない傾向があるため、この数字はほぼ正確であると考えられる。アニッタは(後世の目から見れば)割合小規模な軍勢を率いて遠征を続け、のちにヒッタイト帝国の首都となるハットゥシャを攻略して先住民ハッティ人の王[[ピユシュティ]]を降し、この町を焼き払った。''「夜中に都市を攻略し、そこに草一本生えないようにした。我が後の王でここに住むものあれば、天なる天候神の怒りに触れん」''と記している。
 
[[Image:KültepeMuseum 0877of Anatolian Civilizations045 kopie1.jpg|thumb|カネシュ250px|'''アニッタ'''遺跡・銘が入った青銅製槍先(キュルテペ出土)]]
彼はその遠征に[[鉄]]製の笏(しゃく)と玉座を伴ったという。当時鉄は貴金属であり、[[金]]よりも高価だった。また当時のヒッタイトの拠点[[カネシュ]]市の遺跡である[[キュルテペ]]からは、「アニッタ」の名が入った銘文を刻んだ[[青銅]]製の[[槍]]先(誤って「[[短剣]]」と紹介されることが多い)が出土しており、その実在を裏付ける証拠と考えられている。
 
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