「中野義時」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
百科事典の項目として成立させるため、一部最上義光の項より引用&推敲
1行目:
'''中野 義時'''('''なかの よしとき'''、[[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年)? - [[1574年]]([[天正]]2年)))?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系 [[河内源氏]]の流れを汲む足利氏の有力一門 [[斯波氏]]の血筋で奥州探題 [[大崎氏]]の支流 [[最上氏]]に生まれる。父は[[最上義守]]、兄は[[最上義光]]。なお、実在には疑念があるとされる。実在した場合、弟に[[長瀞義保]]、[[楯岡光直]]がいたことになる。
 
== 生涯 ==
中野義時実在説を採るならば、天文19年([[1550年]])に最上氏第10代当主・[[最上義守]]の子として生を受ける。母は永浦尼ともいわれるが不明。父の義守は[[中野義時]]を偏愛するようになり、嫡子の義光を冷遇するようになる。のち義守は義光を廃嫡し、義時に家督を譲ろうとしたため、義光は次第に義守や義時と対立することとなる。当初は重臣の殆どが義守・義時派についていたが、最上家重臣である[[氏家定直]]の調停により、結局は義守が[[元亀]]元年([[1570年]])に[[隠居]]し、義光が家督を継ぐことになった。
 
家督相続の直後に定直が死去したため、その後隠居していた義守が再び義時に味方するなど家督争いが再燃し、家臣団の分裂や義守側に荷担した[[伊達輝宗]]が出兵してくるなど、その抗争は激化した。しかし義光は逆に一族・家臣団の粛清・統制を行ない、[[天正]]2年([[1574年]])に義時のいる[[中野城]]を攻撃。結局義時は後継争いに敗れ、義光によって自害させられた。
最上兄弟骨肉の争いは、もはや最上義光を語る上で欠かせない事実であるかのように思えるが、こうした挿話は大正時代からの書物にしか登場しない。このことを鑑みても、中野義時という人物が実在したかどうかははなはだ疑問であり、伊達政宗の弟との確執を模した偽説である可能性が極めて高いことを注意されたい。
 
== 実在したか否か ==
最上兄弟骨肉の争いは、もはや最上義光を語る上で欠かせない事実であるかのように思えるが、こうした挿話は大正時代からの書物にしか登場しない。このことを鑑みても、中野義時という人物が実在したかどうかははなはだ疑問であり、伊達政宗の弟との確執を模した偽説である可能性が極めて高いことを注意されたい。
 
この義時は、兄・義光による謀殺という、創作と思われるエピソードが語られてきている。父・義守は長男の義光を嫌い、義時を偏愛した。これが原因で家臣団が義光派と義時派に分かれ、義時は家督をめぐって兄・義光と不和になって対立する。これは[[最上氏]]内部の内乱にまで発展した。しかし父が義光の争いに敗れて強制的に隠居させられると不利になり、さらに義時が義光を呪い殺そうと調伏したのを知って義光が激怒、1574年に義光の攻撃を受け切腹にさせられた、というものである。
 
しかし、中野義時は一部の家系図([[寛政諸家譜]]等)にのみ記録が残り、同時代[[史料]]の中には名前が見られないため、冒頭にもあるとおり、実在の人物であること自体を疑うべきであろう。最上義守の書状に登場する「中野」は義守本人の可能性が高い。さらに、義光が中野氏を攻めた事実が史料には残っていない。(詳細は[[最上義光]]を参照のこと)
 
''中野義時架空説の詳細については[[最上義光]]の項目も参照のこと。''
 
==関連項目==