「駒場 (目黒区)」の版間の差分

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元々、[[荏原郡]][[上目黒村]]の一部であり、現在の大橋の大部分、青葉台の一部を含む概念であった。
 
[[江戸時代]]には、将軍家の[[鷹#鷹狩|鷹狩]]場が設けられたことがあり、この地域に狩りの際に利用する馬を止める場所(駒場)があったことが名前の由来とされている。現在の三角橋交差点の付近(四丁目)に番小屋があったとする史料もある。なお、集落や農地はまばらであった。
 
[[幕末]]には、この鷹狩場の土地を、[[下北沢村]]、[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]][[代々木村]]等に拡大し錬兵場として整備する幕府構想がたてられたが、拡大先各村の反対運動で断念した(下記「駒場野一揆」)。
 
明治時代以降、農業関係をはじめに各種の研究・教育機関の立地が進み、文教の地としてのイメージが定着していった。目黒区はホームページにおいて、「近代[[農業|農法]]発祥の地」としている<ref>[http://www.city.meguro.tokyo.jp/info/rekishi_chimei/category/rekishi/hokubu/01.htm ]</ref>。
 
その後、[[東京市]]、目黒区への編入、住居表示実施等を経て現在の形となっている。
<!---この段落はリダイレクト先となっていますので構成を変更される際はご注意ください-->駒場野一揆とは、[[1867年]]に起こった百姓[[一揆]]である。
 
近代的な軍隊の整備の必要性に迫られた[[江戸幕府]]は、1867年に、上記の整備計画を立てた。この拡張計画の詳細は史料上不明確なところがあるが、概ね現在の上原、北沢、代沢、富ヶ谷等が対象となっていたことは明確に窺える。これらの駒場の北方は、当時は農地よりも[[]]地が目立っていた。
 
ところが、拡張範囲について風説が広がり、農地を奪われることを恐れた周辺村の農民が、同年8月に一揆を起こし、番小屋を破壊するなどの行動に出た。
== 参考資料 ==
* ふるさと世田谷を語る-世田谷区
<references />
 
 
{{目黒区の町名}}
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