「聖書無謬説」の版間の差分

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*聖書に書かれていることは一言一句にわたって全く誤りがないと説き、しかも聖書をそのままに「文言を鵜呑みにする」ように読むべきであるという教義を、「聖書無謬説」であると定義する神学者と教派が多数存在することから、キリスト教関係のキリスト教関連用語として使用されているのである。
 
 本来、「無誤」と言う語にしても「無謬」と言う語にしても「誤りがない」ことを表現する同義語であるが、聖書に性質に関しての論議が進むにつれて、ある論者は、次のようなニュアンスを付して、これらの語を区別するようになった。
 
 ・*「無謬」:教理や道徳に関する聖書の言及において、誤って導くことがないこと。
 ・*「無誤」:聖書の歴史的、科学的言及において、誤った内容のないこと。
 上記のように、用語間にその意味の差異を設けえた上で、ある人は「聖書に誤りがない」と言うとき、前者のみを主張し、ある人は、双方を含めて主張するという事態が生じた。
 
 ・ *そして、聖書の「無謬」性のみを主張する立場を、「部分的無誤性」の支持者、そして、双方、すなわち「無謬」「無誤」性を共に受け入れる立場を、「全的無誤性」の支持者と表現するに到った、と言うのが一般的な理解である。しかし、様々な著作におけるこれらの「無誤」、「無謬」の定義は多様で、注意深く読むことが求められている。そもそも二つの概念を分離して論じること自体に無理があることから、[[聖書の無誤性に関するシカゴ声明]]は「全的無誤性」を支持する立場からの声明となっている。
 ・「無誤」:聖書の歴史的、科学的言及において、誤った内容のないこと。
 ・ *この立場を取る学者も、[[オリゲネス]]以来、聖書に平行記事間の矛盾など、問題があることに気づいていない訳ではない。ただ、そのような問題を、即、「誤り」(eroors)と断定しないで、聖書の「諸現象」(phenomena)と言う表現に置き換え、歴史的・科学的分野での聖書の言及に明らかな誤ちが立証されるか否かを待つという姿勢である。
 
 上記のように、用語間にその意味の差異を設けえた上で、ある人は「聖書に誤りがない」と言うとき、前者のみを主張し、ある人は、双方を含めて主張するという事態が生じた。
 
 ・ そして、聖書の「無謬」性のみを主張する立場を、「部分的無誤性」の支持者、そして、双方、すなわち「無謬」「無誤」性を共に受け入れる立場を、「全的無誤性」の支持者と表現するに到った、と言うのが一般的な理解である。しかし、様々な著作におけるこれらの「無誤」、「無謬」の定義は多様で、注意深く読むことが求められている。そもそも二つの概念を分離して論じること自体に無理があることから、[[聖書の無誤性に関するシカゴ声明]]は「全的無誤性」を支持する立場からの声明となっている。
 
 ・ この立場を取る学者も、[[オリゲネス]]以来、聖書に平行記事間の矛盾など、問題があることに気づいていない訳ではない。ただ、そのような問題を、即、「誤り」(eroors)と断定しないで、聖書の「諸現象」(phenomena)と言う表現に置き換え、歴史的・科学的分野での聖書の言及に明らかな誤ちが立証されるか否かを待つという姿勢である。
 
*これに相対して、聖書を自由に読もうと主張する神学者もいる。その論説の要旨は、聖書を書いた「[[聖書記者]]」自身が人間であり、人間とは、聖書においてが強く語られているように、「愚か」で、絶対ではなく相対で、「限りのある有限な存在」であり、そして、聖書を書いた多数の聖書記者もこの愚かさと、有限を超越できないものだとすれば、神の啓示を受けた「聖書」ですら、「神の筆先」ではなく、人間の主観というフィルターを拭い去ることができずに聖書記者は書いている。しかも、聖書を正典としたのは愚かな人間が開催した会議で、人間が決定したものである。したがって、いたるところに説の違いがあるということを強調しつつ、聖書を歴史的批判的に読むべきだと主張する神学者もいる。
 
==補足説明==