「伊達宗遠」の版間の差分

「伊達宮内大輔行朝者死去、子息万寿丸幼稚代官[[伊達宗政|伊達修理亮宗政]]」とみえ、
また宗遠の初見は[[1342年]]の『[[五辻顕尚]]の書状』の中の伊達飛騨前司とある為、
宗遠は行宗(行朝)の子息で無い可能性も指摘されている{{要出典|2007年11月24日。誰が指摘した<ref>小林清治『東昌寺と陸奥安国寺』、『伊達政宗か書いすべおくとよい}}』(新人物往来社)</ref>
[[1377年]]に伊達宗政(修理亮)が[[留守持家]]と一揆を結んだとの史料(一揆契約の書状)もあり、
修理亮宗政と宗遠が同時代の人であることがわかる。
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