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幸長が慶長18年(1613年)に卒すると、知近は後継に幸長の三弟である[[浅野長重]]を推した。しかし次弟の[[浅野長晟]]が紀州藩主をついだため[[大坂の陣]]には長晟のもとで参戦している。夏の陣では同じ浅野家重臣の[[亀田高綱]]らと[[樫井の戦い]]で[[大野治房]]と交戦。治房が率いていた[[塙直之]]、[[淡輪重政]]の軍勢を破った。
元和5年([[1619年]])の[[福島正則]]の[[改易]]から長晟の[[安芸国|安芸]][[広島]]への[[転封]]が決まり、知近は[[広島城]]を受取の任を務めている。ところが[[三原城|三原]]で[[城代]]としての地位を望んだ知近に対し、長晟が[[三次城|三次]]3万石をあてがったことから両者は対立。同年11月26日に長晟に
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