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{{サッカー選手
|名前=ジョアン・ディクソン・カルバリオ
|画像=
|本名=ジョアン・ディクソン・カルバーリョ
|愛称=
|カタカナ表記=カルバリオ
|アルファベット表記=Carvalho
|原語名=
|原語表記=
|国={{BRA}}
|誕生日=[[1952年]]
|出身地=[[サンパウロ市]]
|身長=172cm
|体重=67kg
|血液型=
|所属チーム名=
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]]
|背番号=
|利き足=
|CAP数=
|代表ゴール数=
}}
'''ジョアン・ディクソン・カルバリオ'''('''João Dickson Carvalho''', [[1952年]] - )は、[[ブラジル]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者。登録名は「カルバリオ」。
 
[[セルジオ越後]]の勧誘を受け1975年に日本の[[藤和不動産サッカー部]](現在の[[湘南ベルマーレ]])に加入。セルジオは程なくしてクラブを離れ、その後クラブ名も「フジタ工業サッカー部」へと代わるが、エースストライカーとして[[アデマール・ペレイラ・マリーニョ|マリーニョ]]や[[比嘉盛範|セイハン比嘉]]らのブラジル人選手と共に1977、1979、1981年に[[日本サッカーリーグ]]制覇に導き、黄金時代を築いた。カルバリオ自身も1977、1978年には得点王に輝いた。日本リーグ通算117得点は歴代2位。1977年の23得点はシーズン最多得点記録である。
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引退後は[[奥寺康彦]]の主催したサッカースクールのコーチを務めたが、その後ブラジルへ帰国。コーチングライセンスを取得し兄が会長を務める[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州リーグ2部]](Campeonato Paulista da Segunda divisão、4部リーグに相当)の[[バレットスEC]]のディレクターを務めている。
 
== 所属チームクラブ ==
* [[グアラニFC]] (ブラジル)
* [[バレットスEC]] (ブラジル)
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* アラグリア(ブラジル)
* [[リオプレットEC]](ブラジル)
*1975年-1982年 [[藤和不動産サッカー部|藤和不動産 / フジタ工業]] (日本) 1975年-1982年
*1983年-1986年 [[全日空横浜クラブ| 横浜トライスター/ 全日空横浜]] (日本) 1983年-1986年
 
== 個人タイトル ==