「エドモン・ロスタン」の版間の差分

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[[1894年]]、24才、恋の幻滅と再生を描いた三募の韻文喜劇「ロマネスク」を[[コメディ・フランセーズ]]に持ちこんで上演し、その叙情性が好評を呼んだ。ついで、中世吟遊詩人の悲恋物語「遙かなる姫君」を[[サラ・ベルナール]]のために書き、これは成功しなかったが、[[1897年]]さらに彼女のために書いた三幕の聖書劇「サマリアの女」は、ルネサンス座([[:fr:Théâtre de la Renaissance|Théâtre de la Renaissance]])で上演して成功した。
 
そして、鼻が大きすぎて愛されないと信じている才人貴族の物語「[[シラノ・ド・ベルジュラック#ロスタンの戯曲|シラノ・ド・ベルジュラック]]」で、畢生の大当たりをとった。これは、サラ・ベルナールの紹介で知り合った俳優、[[コンスタン・コクラン]]([[:fr:Coquelin aîné|Benoît Constant Coquelin]])に依頼された五幕の韻文劇で、ポルト・サン=マルタン座([[:fr:Théâtre de la Porte Saint-Martin|Théâtre de la Porte Saint-Martin]])の[[1897年]][[12月28日]]の蓋明けから500日間、400回を打ちつづけ、[[パリ]]中を興奮させたと言われ、今に至るまで各国で頻繁に上演されている。
 
その後、[[1900年]]に[[ナポレオン2世]]の悲運を描いた「鷲の子」をサラ・ベルナールにより、[[1910年]]に鳥ばかりが登場する寓意的な「東天紅」をコメディ・フランセーズで[[サッシャ・ギトリー]]により、上演するが、世評は「シラノ」に遠くおよばなかった。時代を先取りしすぎたとの所論が、後年行われている。