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阿部正桓(浅野元次郎)は[[安芸国]][[広島藩]]12代藩主の[[浅野長勲]]の実弟として[[嘉永]]4年([[1852年]])に生まれる。[[戊辰戦争]]最中の[[慶応]]4年([[1868年]])に18歳で[[備後福山藩]]9代藩主[[阿部正方]]の養子となり、名を正桓と改め5月20日[[福山城 (備後国)|福山城]]へ入り第10代藩主となる。だが、実際には正方は前年末に死去しておりその事を隠しての入嗣であった。そのため正方の死は翌月6月になって公表された。尚、この強引ともいえる養子縁組は新政府の福山藩存続を許す条件であったといわれる。
 
同年の福山藩は年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城に始まり、[[伊予国]]松山への出兵、[[播磨国]]西宮の警護、[[大阪府]][[天保山]]砲台の警護など新政府軍への対応に追われたが、正桓も藩主就任直後の[[明治]]元年([[1868年]])9月に[[箱館戦争]]への出兵を命じられた。度重なる兵力動員に藩財政は実質的に破産状態にあったが徳川譜代の負い目から新政府の要求を拒否することはできず、10月2日総督岡田伊衛門、参謀江木鰐水以下696名が[[鞆の浦]]から船に乗り函館([[北海道]])へと向かった(この戦いは明治2年([[1869年]])5月まで続いた)。翌、明治2年([[1869年]])2月、正桓は[[版籍奉還]]を願い出て同年8月に福山藩[[知藩事]](藩知事)に任命される。こうした中、正桓は藩政改革を開始し「福山藩職員令」を発布して従来の家老を中心とした藩組織を大参事を中心とした近代的な組織へと改め人事も刷新した。しかし明治4年([[1871年]])7月[[廃藩置県]]により正桓は知藩事を罷免され同時に[[東京府]]への上京を命じられることになった。そして同年9月に正桓が福山を出立しようとしたところ、この上京に反対した民衆が福山城下に集まり一部が暴徒化して藩兵に鎮圧される事件が発生した。しかも騒動はこれで収まらず藩内各地に飛び火し[[打ちこわし]]や放火が相次いで発生した。これに対し正桓は自ら説得に当たるなどし、結局出発は11月まで延期されることになった。[[東京府]][[東京市]][[本郷区]]現在の[[東京都]][[文京区]]本郷)に移り住んだ正桓は明治17年([[1884年]])[[伯爵]]になる。明治18年([[1885年]])9月、福山教育義会会長として旧藩校[[誠之館]]の維持に努める。大正3年[[従二位]]。大正3年([[1914年]])死去。享年64。
 
養子として旧姫路藩主酒井伯爵家に入った息子の[[酒井忠正]]は農林大臣などを歴任した。
 
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