「飛騨高山藩」の版間の差分

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天領地となった飛騨高山には[[代官]]として[[関東郡代]]の[[伊奈忠篤]]が兼任で入り、[[加賀国|加賀]][[金沢藩]]主の[[前田綱紀]]が高山城在番となった。高山城の維持が難しくなった幕府は[[元禄]]8年([[1695年]])に取り壊しを決め、それ以後飛騨高山代官・郡代は金森家の下屋敷であった[[高山陣屋]]にて政務を行った(ただし、高山陣屋在勤制の成立は[[長谷川忠崇]]が代官であった[[元文]]3年([[1738年]])とする説もある)。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])、[[森山実道]]が専任の代官に任じられたが[[安永]]6年([[1777年]])、代官[[大原紹正]]が飛騨一国の[[検地]]を成功された功績を高く評価され、[[飛騨郡代]]に任命された(なお、大原への評価の高さは1代のみとは言え、嫡子[[大原正純|正純]]への郡代[[世襲]]が許されている点からも言える)。飛騨郡代は役高400俵で[[布衣]]着用が許され、代官としては関東・美濃・西国筋に次ぐ第4位の序列だった。後に[[白山]]一帯の幕府領及び[[美濃国]]・[[加賀国]]・[[越前国]]に散在する幕府領の支配も任され、越前本保([[福井県]][[越前市]])・美濃下川辺(岐阜県[[川辺町 (岐阜県)|川辺町]])に出張所が置かれていた。[[文化_(日本)|文化]]2年([[1805年]])には10.8万石、[[天保]]9年([[1838年]])には11.4万石を支配していた。[[安政]]5年([[1858年]])の史料では郡代支配の属僚が24名、旧金森氏遺臣などからなる世襲の地役人が49名いたとある。[[幕末]]の[[新見正功]]に至るまで25人の代官が飛騨を支配した。なおこの高山陣屋は江戸時代の陣屋の中で唯一現存しており、保存・修復工事を行って国の史跡に指定されている。明治維新に至るまで、25代177年間のうち、14代92年が飛騨郡代の支配であった。
 
明治元年([[1868年]])、飛騨は[[明治政府]]によって収公され、[[飛騨県]]、[[高山県]]、[[筑摩県]]を経て[[岐阜県]]に編入された。