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'''長岡 護美'''(ながおか もりよし、[[天保]]13年([[1842年]])9月19日 - [[明治]]39年([[1906年]])4月8日)は、[[肥後国]][[熊本藩]]家老。[[下野国]][[喜連川藩]]の嫡子。明治期の[[外交官]]・[[華族]]([[子爵]])・[[貴族院議員]]。喜連川藩嫡子時代は、'''喜連川 紀氏'''(きつれがわ のりうじ)と称した
 
熊本藩主・[[細川斉護]]の六男。幼名は良之助。嘉永3年(1850)5月、喜連川藩主・[[喜連川煕氏]]の養子となった。それにともなって、金王丸と称した。安政3年(1856年)4月元服した。それにともなって、喜連川紀氏と名乗った。しかし、[[安政]]5年([[1858年]])4月、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った。
 
明治元年(1868年)3月、明治新政府の[[参与]]に就任する。同月、従五位下左京亮に叙任する。同年閏4月、従四位下侍従に昇進する。明治3年(1870年)、熊本藩知事[[細川護久]]に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。