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[[画像:Oura Church.jpg|thumb|大浦天主堂を見上げる|大浦天主堂を見上げる]]
'''大浦天主堂'''(おおうらてんしゅどう)とは、[[長崎県]][[長崎市]]にある[[キリスト教]][[カトリック教会]]の[[教会堂]]で、[[日本国内に]]最古の現存する[[キリスト教]]建築物で最古のもの
 
また[[国宝]]に指定された唯一の[[洋風建築]]でもある(天主堂の「天主」とはキリスト教の神の意味)。正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」。
 
==構造・様式==
[[江戸時代]]末期の[[元治]]元年([[1864年]])に[[フランス人]][[司祭]][[ベルナール・プティジャン]]と[[横浜]]から来た[[ルイ・テオドル・フューレ]](Louis-Theodore Furet)神父が基本設計を行い、[[天草諸島|天草]]出身の棟梁[[棟梁]]小山秀之進]]が建設した。建築当初は三本の塔を持つ[[ゴシック]]風のつくりながら、正面中央の壁面は[[バロック]]風で、外壁は[[ナマコ壁]]という特殊なスタイルであった。[[1879年]]に増築され、外壁を[[レンガ]]造にあらため、完全にゴシック風の建物になった。
 
[[2007年]]、建立当初の設計図(平面図と側面図)が、[[フランス]]の[[パリ外国宣教会]]で保存されていたプティジャン司祭からの手紙の中から見つかった。
 
==信徒の発見と大浦天主堂==
建立まもない「フランス寺」は美しさとものめずらしさで付近の[[住民]]たちが多数訪れていた。プティジャン[[神父]]には今でもカトリック徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。
 
慶応元年([[1865年]])[[3月17日]]、いわゆる[[隠れキリシタン]]であった、「イザベリナ(杉本)ゆり」という52歳の[[女性]]を中心とした長崎・浦上の一団の[[キリスト教徒]]が大浦天主堂にやってきた。彼らは大浦天主堂がカトリック教会であると判断した。そのうち三人の女性たちが、祈っていたプティジャン神父に近づくと「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」(私の宗旨はあなたの宗旨と同じです)とささやいた。彼らは[[聖母マリアの]]像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックであると考え、自分たちの信仰を告白して神父を喜ばせた。やがて、浦上だけでなく長崎地方全域で多くのキリスト教徒が信仰を守り続けていたことがわかり、この「信徒発見」のニュースはやがて当時の[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「[[東洋]]の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。
 
==所在地==