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王郎は、元々は占卜を生業とし、天文や暦法に通暁していたが、自身の占いにより、河北に天子の気があると考えていた。[[王莽]]が新を建国した際に、偶々[[長安]]では前漢の[[成帝 (漢)|成帝]]の子である'''子輿'''を自称して誅殺された者がいたが、王郎はこの事件を利用し、自分こそが本物の子輿であると詐称する。
 
また、[[更始 (漢)|更始]]1年([[23年]])10月、[[劉玄 (後漢)|更始帝]](劉玄)の命を受けて河北平定にやってきた更始政権の破虜将軍(兼、行大司馬事務取扱)[[光武帝]]が邯鄲を訪れ、河北の有力者で趙繆王の子である[[劉林]]と面会した。しかし、河北に脅威を与える[[赤眉軍]]への対策を巡って両者は対立し、劉秀は邯鄲を離れてさらに北方の真定へ向けて進軍する。ここで劉林は、やはり河北の有力者である[[李育]]、[[張参]]と共に、王郎を共同で君主として擁立した。
 
同年12月、王郎は邯鄲を都として天子を自称し、劉林を[[丞相]]、李育を[[大司馬]]、張参を大将軍に任命している。さらに王郎は、軍を派遣し、冀州、[[幽州]]を制圧した。王郎は、民衆が依然として漢を思慕していることから、漢に忠誠を尽くして死んだ[[翟義]]が未だ死んでいないことを詔で強調するなどして、巧みに声望を獲得している。これにより、趙国以北、遼東以西は、王郎の支配下となった。また、劉秀の首級に10万戸の懸賞を設定し、これを捕えようとしている。
 
同年12月、王郎は邯鄲を都として天子を自称し、劉林を丞相、李育を大司馬、張参を大将軍に任命している。さらに王郎は、軍を派遣し、冀州、[[幽州]]を制圧した。王郎は、民衆が依然として漢を思慕していることから、漢に忠誠を尽くして死んだ[[翟義]]が未だ死んでいないことを詔で強調するなどして、巧みに声望を獲得している。これにより、趙国以北、遼東以西は、王郎の支配下となった。また、劉秀の首級に10万戸の懸賞を設定し、これを捕えようとしている。
=== 劉秀に敗北 ===
劉秀は、翌更始2年([[24年]])の初期において、寡兵により度々滅亡の危機に陥った。しかし確実に拠点を増やし、さらに[[劉植]]、[[耿純]]らの義勇兵の支援も受けて強大化していく。そして、上谷太守[[耿況]]、漁陽太守[[彭寵]]が突撃騎兵を派遣して劉秀を支援したことにより、王郎は完全に劣勢に立たされてしまった。