「細川澄之」の版間の差分

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永正4年(1507年)6月、政元の[[被官]][[香西元長]]・[[薬師寺長忠]]らが政元を暗殺する[[永正の錯乱]]が起こる。元長・長忠らは澄元の[[暗殺]]も計画したが、澄元は家宰の[[三好之長]]の機転によって[[近江国|近江]]に逃亡。澄之は元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して将軍義澄から細川管領家(京兆家)の後継者と認められた。
 
なお、澄之自身は政元の暗殺計画にはほとんど関与しておらず、澄之を新たな[[京兆家]]当主として擁立することで[[三好之長]]ら[[阿波]]の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。
 
しかし近江に逃れた澄元と[[三好之長]]は[[近江]]の[[国人]]を味方に引き入れ、8月1日には京都に攻め上った。澄元と同じく政元の養子であった[[細川高国]]も澄元に加担したため、澄之は敗れて戦死した。享年19。元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。
 
== 辞世の歌 ==
''*梓弓(あずさゆみ)張りて心は強けれど''、引き手すくなき身とぞ成りぬる。
 
== 逸話人物 ==
''梓弓(あずさゆみ)張りて心は強けれど''
*[[廃嫡]]の理由は、細川澄之は貴族で才気に乏しく、15才までに[[管領]]を継がすのは難しいと[[細川政元]]が判断としたことが原因と言われている。これにより香西元長・薬師寺長忠と三好之長が二派にわかれて激しい権力争いがあったといわれている。
 
'' 引き手すくなき身とぞ成りぬる''
 
== 逸話 ==
 
*細川澄之は3才で[[関白]][[九条政基]]の[[末子]]として[[細川政元]]の養子となる。
*[[廃嫡]]の理由は、細川澄之は貴族で才気に乏しく、15才までに[[管領]]を継がすのは難しいと[[細川政元]]が判断とした事が原因と言われている。
*これにより[[香西元長]]や[[薬師寺長忠]]と[[三好之長]]が二派にわかれて激しい権力争いがあったといわれている。
 
 
{{先代次代|[[細川氏|細川京兆家歴代当主]]|細川澄之|[[細川政元]]|[[細川澄元]]}}
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[[Category:1489年生|ほそかわすみゆき]]
[[Category:1507年没|ほそかわすみゆき]]
 
[[en:Hosokawa Sumiyuki]]