「性即理」の版間の差分

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'''性即理'''('''せいそくり''')は、「[[性]]」(人間の持って生まれた本性)がすなわち「[[理|天理]]」であるとする説。[[宋明理学]]の命題の一つ。[[程頤]](伊川)によって提言され[[朱熹]]に継承された、[[朱子学]]の重要なテーゼである。
 
朱熹は[[存在論]]として理気二元論を主張する。[[理]]とは天地万物を主宰する法則性であり、「[[気功#気|気]]」とは万物を構成する要素である。理とは形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為理法であり 気の運動に乗って秩序を与えるとする。
彼らは[[存在論]]として理気二元論を主張する。
[[理]]とは天地万物を主宰する法則性であり、「[[気功#気|気]]」とは万物を構成する要素である。理とは形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり 気の運動に乗って秩序を与えるとする。
 
そしてこのような存在論的な「理」は人間の倫理道徳にも貫かれている。「理」は「性」である。この場合「性」は[[孟子]]の[[性善説]]に基づき善とされる。人間の本来性(理)は善であるが、現実の存在(気)においては善を行ったり、悪を行ったりする。そこで儒者は静座(静坐=[[禅|座禅]])を行なうことで、その本来性(理)に立ち戻り、「理」を体得しなければならない。朱子学では「聖人学んで到るべし」と学問の究極的な目標は「理」を体得し「[[聖人#儒教|聖人]]」となることとされた。