「恵文王 (趙)」の版間の差分

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==生涯==
===誕生===
何の母は呉広(ごこう)の長女で、(もうよう)と通称されて、そた(姚姓家の長女の意味。呉広姓が姚、氏が、諱が(ごこうと言う。ある時に武霊王が夢の中に美女を見て、その美女の特徴を盛んに周囲に話していた。それを聞いた呉広はその夢の美女の特徴が自分の娘に良く似ている事に気づき、武霊王に娘を献上した。孟を見た武霊王はその日から異常に寵愛して公子何を生む。武霊王の孟姚に対する[[寵愛]]は甚だしく、[[紀元前300年]]に孟が没した後、既に[[太子]]に建てていた章を廃嫡して、公子何を太子とした。
 
[[紀元前298年]]、武霊王は、[[中山国|中山]]攻略中に太子何に位を譲り、自分は主父と称し、一切を何に任せたが、依然として実権は有した。即位した何は死後恵文王と呼ばれるので、この項でも以後は恵文王で通す。