「三刀屋久扶」の版間の差分

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[[享禄]]元年([[1528年]])、父である頼扶より家督を継承。
 
[[天文 (日本元号)|天文]]9年([[1540年]])、主君[[尼子晴久]]に従って毛利元就の拠る[[吉田郡山城の戦い]]に参加。篭城する毛利軍に対し尼子軍は長期戦を展開、久扶は土取場の合戦に活躍します。翌年に[[陶晴賢]]率いる[[大内氏]]の援兵に敗れた晴久は出雲へと撤退する。
 
この大敗北に三刀屋氏は[[宍道氏]]・[[三沢氏]]等と共に大内氏側に寝返る。天文12年([[1543年]])、[[大内義隆]]は[[月山富田城]]を攻めるも落とすことは出来ず、これにより多くの出雲国人衆も再び尼子氏へと帰参。これに久扶も帰参している。この後に晴久は反撃に転じ、大内義隆は敗走、養子[[大内晴持]]が事故死するなどの人的損害を被り山口へと敗走した。
[[永禄]]元年([[1558年]])、[[毛利氏]]が石見[[小笠原氏]]を攻撃、晴久は自ら出陣し、久扶も参加。忍原にて毛利氏に大勝する([[忍原崩れ]])。永禄3年([[1560年]])、晴久が突如として急死。これに嫡男[[尼子義久]]が尼子氏当主を急遽継承する。しかし、晴久の急死に動揺する家臣は多く、多くの家臣は義久率いる尼子氏に不安を募らせていた。
 
永禄5年([[1562年]])、石見銀山の要衝である[[山吹城]]にて籠城する[[本城常光]]が毛利氏に服属、久扶はこれに[[三沢為清]]・[[赤穴盛清]]等の将と共に寝返る。久扶が居城とする三刀屋城は、毛利氏にとって重要な兵站基地であり、尼子氏家臣、[[立原久綱]]が攻撃に出向くも、永禄6年([[1563年]])には地王峠にて立原久綱を敗走させている。後に[[白鹿城]]攻め・第二次月山富田城攻めに参加、[[三沢為清]]・[[米原綱寛]]らとともに[[小早川隆景]]の傘下に入り、菅谷口の攻めの先鋒となっている。
 
永禄9年([[1566年]])、ついに月山富田城にて尼子氏は降伏、滅亡する。
 
その後、京に上りの四日市村にて死去した。
 
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[[Category:戦国武将]]
[[Category:1591年没]]
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